真夏の目にしみるような青空にはまだ早く、優しい水色の空が広がる。
その下では若い草が、そよ風にすら邪魔されず、太陽の光を一身に浴びていた。
二つに結った髪を、まとめたオレンジ色のリボンも一緒に揺らして、アニスは宝石のように青く、色濃い羽根に鱗粉をまぶした蝶を追いかける。
草花の間を可憐に舞っていた蝶は見るからにのろく、しかし手を伸ばすと思ったよりも身軽で、ひらりひらりとかわされる。
そのうちくたくたになって、蝶が花の中に紛れて見えなくなってしまったのを境にアニスは足を止めた。
しばらく蝶が隠れたところを探そうと立ち止まったまま辺りを見つめていたが、光に反射するはずの派手な羽根はどこにも見えない。
鼻から長い息をはき、アニスは頬を膨らませる。
すぐそこをふよふよしていた昆虫は青色ゴルゴンホド揚羽と呼ばれるとても貴重な蝶で、捕まえて売れば400万ガルドは下らないと言われている。
あーあ、一攫千金の大チャンスだったのに。
ぷくう、と頬袋を作る彼女の背中に、
「アニス」
柔らかい声がかけられた。
振り返ると声の主、アニスの主が草の絨毯に正座し、微笑みを浮かべながらこちらを見ている。
髪と瞳と服の色、何より彼のまとう雰囲気、つまりは彼の全てが草木と相まってまるで妖精のようだ。
「見失ってしまったのですか?」
「はい。意外とすばしっこいんですよぉ、あいつ。あー疲れた」
眉根を寄せ、まぶたを閉じて首をぐるりと回すアニスに、イオンは手招きした。
近づくと、イオンは己の膝をぽんぽんと軽く叩き、アニスを見上げてにっこりと笑う。
わかりやすいジェスチャーに、えへへと照れ笑いをしてアニスは寝転び、彼の膝に頭を預けた。

花冠作りに勤しむナタリアとティア、お昼寝しているミュウのすぐ横でガイはルークに草笛講座を開いている。
滑らかな音色の合間合間に切れ切れでぶきっちょな音が響く。
各々が好きに過ごす中で、こちらも好きなように書物に記された行を追っていたジェイドは、
イオンに名を呼ばれて文字の羅列から顔を上げた。
草の海に腰を沈めたまま声の方を見ると、少年が首だけをこちらに向けている。寄りかかっていた切り株の、重ねられた年輪の上に本を置く。
ある程度まで近寄ると、イオンの膝を枕にして幸せそうに眠りこけるアニスの寝顔が目に入った。
「世界の導師様に、まったく恐れ多い守護者ですねぇ」
言葉では呆れて、口調では楽しんでいるジェイドはふたりを見下ろした。
男女が逆だという以前に彼らは主従。それもこの世の頂点に立つ者とその守護者。
異様な光景といえばそうなのだが、イオンの顔立ちもあって仲の良い姉妹にも見えてしまい、却って自然なのかもしれない。
「そこに寝転んで頂けませんか」
傍らで足を止めたジェイドに、イオンは膝の前を指差す。
彼の意図が掴めずに、首を傾げながらもジェイドはアニスと並ぶように寝そべる。ただしこちらは安眠枕ではなく草の上。
「腕を広げて下さい」
アニスやイオンの膝にぶつからないように片方の腕を広げる。大体彼が何をしたいのかがわかってきた。
イオンはゆっくりと膝を伸ばし、正座の態勢から腰を持ち上げる。当然その上に乗っかっていたアニスの頭はずり落ちそうになる。
落ちてしまわないように、彼女の後頭部と草の絨毯の間にジェイドは腕を差し込んだ。
んん、とアニスは一瞬だけ軽く眉を寄せ、もぞもぞと頭を動かした。
ジェイドの腕の中で落ち着く位置を探して、またすやすやと眠り続けた。
ジェイドの腕がイオンの膝に取って代わり、アニスの枕になったのを見て、イオンの唇は安堵の笑みをかたどる。
「足が痺れましたか」
イオンはその立場や礼儀から良く正座をするし、アニスが退いた今でもまだその姿勢を崩していないので違うと思いながらも、
彼女をジェイドに預けた理由を知りたくてそう聞いた。
「いえ、それは大丈夫なのですが……」
予想通り、イオンは笑みを浮かべたままゆるく首を振る。アニスの前髪を、それは優しい手つきで撫でる。
「アニスの寝顔を見ていたら、僕まで眠くなってしまって」
それを聞いてジェイドはおやおやと笑った。彼の気持ちは良くわかる。
結った黒髪を微かに乱れさせ、その中に頬を埋めて時折唇をもにょもにょ動かすアニスは間近に見ると眠気を誘発されて仕方がない。
「どうぞ」
ジェイドはアニスが占領しているのとは反対の腕を草原に投げ出した。
「いいんですか?」
「はい」
ジェイドが頷くと、イオンは笑みをほんの少し深くして、ころんと草の上に転がる。
屈強な腕を枕に、一つ小さなあくびをした彼は、緑を映してますます濃くなった色の瞳をそっとまぶたで覆った。

「よう旦那。両手に花ってやつだな」
明るい太陽の光を受けてよりいっそう輝く金髪が作る影の下で、ガイが楽しげに目を細める。
腰に手を当て、川の字で寝転ぶ三人(内ふたりは夢の中)を見下ろすガイがジェイドの顔に影を落とした。
飛んで火に入る夏の虫…ではないが、これ幸いとジェイドはにっこりと笑う。
「そろそろ腕が痺れてきました。代わってください」
眠った人間は子どもであろうとそれなりに重い。人体のなかで一番重い頭ならなおさら、それもふたり分。
「両方は勘弁してくれよ」
天使のような寝顔を浮かべる子ども達に腕を貸しているせいで、普段物騒な男がお手上げ状態。
子どもの片方は起きている時は抜け目のない小悪魔ときている。
まるで親子のような彼らにくつくつ笑ってガイは傍らにしゃがみ込み、イオンの背に手を回し、膝裏に手を差し入れた。
まあ、そうなるか。イオンがガイに抱き上げられるのを見守り、ジェイドは彼の重みが無くなった腕を持ち上げて、またおろす。
ガイはアニスに触れられない。アニスでなくても女性ならば誰でも、眠っていてもだ。
投げ出した足の、腿の上にイオンの頭を乗せて、ガイは風に遊ばれて頬と口元にかかった緑色の髪を払ってやった。
首だけを動かして他のメンバーを探すと、ガイと遊んでいたルークは今、ナタリアとティアが花冠を作っている横で見真似している。
摘むというよりも、ぷちぷちとむしった花を編もうとするルークに、彼女らふたりがお手本を見せ、お昼寝から目覚めたミュウは赤毛の中から身を乗り出して真上から彼の手の中を覗き込んでいる。
先ほどの自分よりも、彼の方がよほど両手に花だ。
仲間達の様子を確認し終えたジェイドは、最後にアニスに目を向ける。
横から見える鼻筋はすっと通っていて、その下の唇は微かに開き、呼吸を繰り返す。
息を吸うごとに膨らみ、はくごとに縮むアニスの胸の動きは、ジェイドとは体の大きさがまるで違うので当たり前だが、彼のものよりずっと速い。
わずかに彼女の頭が動き、思わず身を固くしたジェイドだったが、アニスはこてんと寝返りを打っただけだった。
ううん、とごにょごにょ言いながら、こめかみを彼の腕に擦りつけて頭を安定させ、アニスは再び眠りの世界に沈んでいく。
そろりと、これまた思わない内に詰めていた息を吐き出し、ジェイドはアニスのまぶたの縁に隙間なく生えたまつ毛を見るとはなしに見やる。
寝返った拍子に口の中に入った黒髪をどかしてやろうと、ジェイドは地面にべったりとつけていた背を持ち上げ、体ごとアニスの正面を向き、彼女の頬に手を伸ばす。
グローブ越しでも感じる柔らかい弾力に、手つきが慎重になる。頬を撫でるようにして、髪を耳の後ろに垂らした。
えへらと笑って猫のような口をするアニスに、再び背を地面に預ける気はどこかにうやむやになって、
ジェイドはポケットに手を突っ込んだ。
どんな夢を見ていることやら。……取り逃した金貨の山にでも埋もれているのかもしれない。

職業柄、どこまで深く眠っていようとも人の気配がある一定の距離まで近づけば飛び起きるようになってしまっているジェイドのはずだったが、今回だけは例外だった。
なにせまぶたの外側が暗くなったことでようやく目を覚ますと、視界いっぱいをアニスのどアップが占拠していたのだ。
ここまで近寄るのを許したことなんて未だかつてない。
随分とぐっすり眠ってしまった…と思うよりも先に、己が油断していたことに驚き、
次いでアニスに驚き、ばねで弾かれたようにジェイドは身を跳ね起こした。
「うあだっ!」
ごちん! 鈍い音がしてアニスとジェイドの額が勢いよくぶつかる。
頭蓋骨にひびが入ったかと思わせるような痛みに、アニスは草に突っ伏した。
ぐ、とこちらもわずかながらも呻いて、ジェイドは額に手を当てて前髪を握りつぶす。
「い、いたたたた………あ、あああーー!!」
おでこを両手で押さえ、目に涙を浮かべてジェイドを、正確には彼の眼鏡を見て、
そこに何もないことに慌ててアニスはざっと宙に目を凝らし、叫んだ。
ふよふよと優雅に空を飛ぶ蝶は、彼女がいくら大きくした人形によじ登っても手の届かない高さを誇っていた。
あああ、と情けない声を上げて、アニスは蝶が高みを目指してどんどん己から離れていくのを瞳に映すがままに映す。
「わ、わたしの、400万ガルド……」
しばらくの間、空の青に溶け込もうとする蝶を見ていたアニスは、がっくりと肩を落としたのち、急にぐるりと踵を使って振り返った。
「たいさぁー!」
今度は肩を怒らせて声を荒げる。
「もう、もう、もーう! どうしてくれるんですかぁ、アニスちゃんのよんひゃく」
まんがるど、と続くはずだった言葉は、舌を経由することなく喉の奥に留まった。
「大佐?」
呆然…とは少し違うかもしれないが、とにかくそれに一番近い状態のジェイドを訝しみ、アニスは声をかける。
ぼんやりと、しかしどこかはっきりとした目で彼は地面の一点を見つめていたが、アニスの呼びかけが耳に届いた途端、緩慢な動作で彼女に視線を向けた。
「どしたの? あ、びっくりさせちゃいまいた? すいません」
ジェイドの目の前にしゃがみ、アニスは手を振る。
「いえ」
普段のにこやかで嫌味な笑顔は消失したままで、ジェイドは首を振る。
なんかこの大佐、いつもより余計に変。
「あのね、私が起きたのはちょっと前で、大佐熟睡してたから、ナタリアとティアとルークと一緒に遊んでたんですけど……。
あ、ガイに聞きました。ありがとーございます。大佐の腕枕もなかなか寝心地良かったですよー。ま、イオン様の膝枕にはとーぜん勝てませんけどぉ」
ガイの膝を借りて眠り続けるイオンを見て、またジェイドの方を向く。イオンに誘われたのか、ガイまで船を漕いでいた。
お礼はちゃんと言ったし、とりあえず怒るのは後回しにして、寝ている隙にあそこまで近寄るに至った理由くらいは説明するべきか、とアニスは身振り手振りを交えて話す。
「で、そこに青色ゴルゴンホド揚羽がひらひらーって飛んできて、追いかけてたら大佐の眼鏡に止まったんです。それで逃げないように、大佐起こさないようにそーっと、抜き足差し足」
よっし説明終わり。といっても、いつまでたっても本来の調子を取り戻さないジェイド相手に
喋っている内にアニスの怒る気はすっかり失せていた。
「そうですか」
ワンテンポ遅れて返事をするジェイドに、ひょっとして寝ぼけているのだろうか、とアニスは首を傾げる。 いや、まっさかあ。だって大佐だよ? とすぐに改めるが、ではこの反応は一体。
途方に暮れて、しかし珍しいものを見る目つきでアニスは膝に肘をつき、ジェイドを観察した。
さて、彼女が改めた通り、彼は決して眠りを引きずっていたりしている訳ではなかった。
驚いていたのだ。アニスの重みや温もりが離れたことに気付かなかった、そのまま無防備にも眠りこけていた、彼女があそこまで近づく前に気配を感じて起きなかった。
いや、それも己の心理の把握としてはなっていない。
気配は感じていたのだ。ただ、それと危機が結びつかなかった。戦闘体勢を取らなくても別状はないと脳の隅で、無意識に思っていた。
要は、安心しきっていたのだ。
深く長い息を吐いて、ジェイドはまぶたを伏せる。
その様子にひょいとアニスが首をかたむける。
彼はアニスの豊かな髪が風になびくのをぼうっとして見ていた。
厄介なことになった。
あそこまでアニスに距離を縮めるのを許していたこともそうだが、何より一番厄介なのは、腕に沈んだ彼女の頭の重さ、グローブ越しに感じた温もり、それらが離れていったことにすら気づけなかったことだ。
それを寂しいとちらとでも思ったことだ。たとえそれが信頼からくるものであっても。