「君は本当に賢いね」
黒板に書かれた数式を暇つぶしに解く。すると、終わったと同時に背中から声が掛けられた。
振り返ってみれば、そこには彼を拾ってくれた……否、彼が「どうしてもと言うから仕方なくお世話になってやっている」ニンゲンが立っていた。
「はひ?」
かつん…と足元で軽い音がして、ばいきんまんは下を見る。さっきまで握っていたチョークが床に転がっていた。どうやらたった今、気が付かないで落としてしまったらしい。
「うちの学生達も、君みたいに優秀だともっと助かるんだけどねえ」
恰幅の良い、見るからに聡明で、かつ優しい顔をした初老の男性(彼の宿敵の生みの親にどことなく似ていた)は、ばいきんまんの解いた計算式を目線でなぞる。
「いいねえ、ちょっと遠回りもしてるけど、でもきちんと解けているね」
赤いチョークを摘み、教授はばいきんまんの数式に大きな花丸をつけた。
二重丸が三重丸、四重丸へと渦巻いてゆく度、それを飾る花びらが一枚一枚増えてゆく度、ばいきんまんは目を丸くして、教授の手先に魅入る。
「かしこい……おれさまが?」
「もちろん」
教授は何も、今日のこの計算式だけを見てそう言ったのではない。ばいきんまんが、暇だ暇だあいつはどこにいったのだやっつけてやるー! と、普段していることができないが故に溜まっていくストレスをぶつけるため、その場にあったがらくたであっという間に武器を一揃い作り上げたのに始まり、学生たちが提出したレポートを教授の脇から覗いて、「ここ違うのだ」と記述の間違いを指摘したり、果ては研究室の薬品を使って世にもおかしな効能を持つ新薬を調合してみせたり、これまでのそういった行動を一つ一つ追って、ばいきんまんに至極真っ当な評価をしたまでだ。
しかし、
「かしこい、かしこい、かしこい……かしこい?」
ばいきんまんは、そんな評価はまるで初めて得たかのように戸惑い、口の中でその響きを繰り返し繰り返ししていた。
「ひょっとして言われたことないの?」
「ない!」
つのまで揺らして勢い良く頭を左右に振り、その拍子に迷いがぽろっと転げ落ちたのか、みるみるうちにその顔は明るくなっていった。
「は、は、初めてなのだ……!!」
自分に才能がないなどどは思っていない、むしろ天才だとすら自負していたばいきんまんだったが、発明しているものが人を困らせるためのものばかりなので、他人にまともにそう言われたのなんてほとんど初めてなのだ。ヒヤリにはセンスのない発明だと言われるし、ばいきんせんにんに言わせれば、彼はまだまだ「未熟者」だし。たまーに、ドキンちゃんが「わお、ばいきんまんってばてんさーい!」なんて言ってくれて、「えへへそうでしょ!」なんて返す時もあるにはあるのだが。
じわじわと外側から内側へと侵入してくるような歓喜に、ばいきんまんは、
「くぅううううう……」
小さな体をますます縮み込ませて、ぷるぷると震える。
次の瞬間には、ばねを仕掛けていたかのように全身を使って飛び上がった。
「はぁっひふっへほー! おれさまてんさーい!!」
浮かれて、ぴこぴこと羽としっぽを動かす。
「そうだとも、君には才能がある」
すかさず打たれた相槌に、ばいきんまんはスキップして教授の研究室をぐるりと一周した。

「ワトソン君! 次の薬品を持ってきたまえ!」
すっかり気を良くしたばいきんまんは、次の日には教授の研究室をほとんど乗っ取る勢いで、自分の発明スペースをつくっていた。
人の良い教授は、ほんのり苦笑いをしながら(しかし場所を取られたことにではなく、ワトソンという名の助手を従えているかの人物は、それは素晴らしい科学者でもあったけれど、本業はやっぱり探偵であったことからだ)、それでも小さな博士が指示した試験管を努めて恭しく手渡した。
「はい、どうぞ、ばいきんまん先生」