「まあ」
開け放しにされていた騎馬王丸の部屋を、扉も閉めないで何をしているのだろう、と通り過ぎる際にひょいと覗いたリリ姫は、一角に設けられた見慣れない敷き物に目を丸くした。
爪先の向きを廊下から部屋へと反転させ、リリ姫は件のスペースまで歩を進める。
「天宮から調達したのですか?」
「ああ、畳と言ってな。向こうの奴らが色々と送って来た」
一般家庭でもたまにある(もしシュウト宅にあったとしても、彼の母の出身を考えるとさほど不思議ではない)洋風の家に作られたささやかな和の空間。そこには、将棋盤を据えて対局者がふたり座ってもまだゆとりのある分だけ畳が敷かれていた。
リリ姫が天宮で過ごした時間はごく短い。それも武里天丸軍の野陣で控えているか、天地城の大神将の間に捕らわれているかだったので、畳をまともに見るのは今回が初めてだ。
「上がっても?」
「好きにしろ」
きらきらと目を輝かせるリリ姫に、騎馬王丸は次の届け物を取り出しながら答える。
相変わらずぶっきらぼうだが、彼女はそれを咎めないし、また騎士達のような対応を求めるわけでもない。
逸る気持ちを隠そうと、リリ姫はゆうるりとした手つきで長いスカートをつまみ、畳に足をかけた。
さく、と僅かに音がして、彼女の顔はぱああっと明るくなる。
「姫、それは履物を脱いで上がるものだ」
「……」
こほん。リリ姫は咳払いして畳にかけていた片足をカーペットに下ろし、プリンセスサイズの靴を脱いだ。
薄手のタイツに包まれた爪先が、固められた藁を改めて踏む。
ひやりとした温度と、足の裏の皺をなぞる敷き詰められた平行線がくすぐったい。
初めて触れるものにしばらく感動して、リリ姫は立ち尽くし、次に踵を上げたり下げたりしてそれを味わい、そしてど真ん中に据えられた将棋盤の周りをぐるりと一周した。
「気に入ったか」
「ええ!」
すぐさま頷くリリ姫に、騎馬王丸はそうかと呟き、送られた掛け軸を広げた。
そこにはかつて天守閣に提げられていた「天下掌握」ではなく、「元気モリモリ」と書かれていた。
「下手糞め……」
字は歪、飛び散った墨は半紙をもはみ出している。名を表す印章はなく、代わりに朱印をべったりとつけた手形が押してあった。
「名の通り元気でのびのびとした字ですね」
騎馬王丸の肩越しに、リリ姫は覗きこみ、ふふふと嫋やかに微笑む。
ふん、と騎馬王丸はつまらなさそうに鼻を鳴らした。虚勢なのは誰の目からも明らかであったが。


「姫、また騎馬王丸の部屋に入り浸って」
廊下を歩くリリ姫を捕まえて、ゼロは咎めるニュアンスをなるべく潜めて、やんわりとぼやく。
「? なんのことでしょう」
常と変わらない様子でリリ姫は立ち止まる。が、咎められたその瞬間だけ、ゼロでも見逃せないほどに彼女はぎくりと身を縮めてしまっていた。
「まあ、晴れた日の畳は寝心地がいいですからね。お気持ちは解ります」
「ゼロ。あなたが何を言いたいのか、わたしにはさっぱり……」
尚もとぼけるリリ姫に、ゼロはちょんちょんと自分の頬をつつく。
?マークを浮かべ、リリ姫は薄絹で包まれた手で右の頬に触れた。が、特におかしなことはない。
「逆です、逆」
言われるがままにリリ姫は今度は反対側の頬を撫ぜて……その場に凍りついた。
本来滑らかに手がすべるはずのその肌は、どうしてだかぽこぽこと波打っている。
柔らかいそこには並行した線が何本もしっかりと食い込み、横断し、更にはほのかに赤みが差していて、これではまるで。
言い訳を頭の中で捏ねくり回すでもなく、八つ当たり気味にゼロを叱咤するでもない、ぐるぐると目を回すリリ姫が矛先を向けるのはただ一人。
(ひとこと、一言教えてくれてもいいじゃありませんか騎馬王丸……!)


その頃、騎馬王丸は一人将棋を指しながら、今頃あの姫は困っているところよなあ、と想像してくつくつと笑っていた。