夕方頃、基地内の図書室から借り出した本を眺めていると、キャプテンが小さな鍋を持ってやってきた。
今ひとつネオトピアの言葉に慣れ切っていないので、写真の多い図鑑の類いを選び、暇潰しにぼんやりと捲っていたゼロだったが、テーブルに置かれた鍋から漂う匂いに手を止める。
「料理に挑戦した。是非食べて欲しい」
端的にそう言い、纏っていたエプロンを外し、おたまで皿によそって寄越してくる。ホワイトシチューのようだった。
随分と唐突だなと思ったが、キャプテンが何かをする時に唐突でなかったことはあまりないのだったと思い直し、ゼロは本を閉じる。
「どうぞ」
「ありがとう。ではいただこう」
夕飯の時間にするには若干早かったが、小腹も空いていたので、差し出されたスプーンでゼロはシチューを掬って口に含んだ。
口の中に広がるミルクの甘味と心地よいとろりとした舌触りにまずゼロは感心した。さらさらとしたスープのようなシチューを好む人によっては少々とろみがありすぎるかもしれないが、それも個人の好みの範疇だ。シチューはさらさらよりもとろとろ派であるゼロは満足して飲み込む。
にんじんもブロッコリーも柔らかく煮込んであるし、口当たり良くつくられている。
「どうだろうか」
「ふむ、初めてとは思えないほどとても良く調理できている。おいしい」
素直にそう告げると、キャプテンはこっくりと頷いた。
「良かった。書かれていた手順通りにつくったのだが、味見による微調節ができないので不安だった」
自分は食べられないのに料理に勤しむキャプテンがなんだか非常に健気に見えて、ゼロはすぐに二口目を食べようとした。
しかし、見慣れない色と形の肉を不思議に思い、スプーンでつつきながら料理人に尋ねる。
「これはなんの肉だ? 豚とも牛とも違うし……初めて見る」
「非常に珍しい肉だ。なかなか手に入らない。味わって食べてくれ」
「うん」
言われた通りシチューごと肉を掬って口に含む。どこかつっかかるような食感だが、気にならない程度であったし、味そのものは甘みがあって美味だった。もぐもぐと噛んでいると、向かいの席に腰を据えたキャプテンが話しかけてきた。
「ところで昨晩、私のところにフェンがやって来た」
「ああ、そういえば今日はまだ見てないな。キャプテンのところにいたのか。今はどこにいる?」
「さあ………」
キャプテンはゆっくりと首を左右に振った。
いつも明快に答える彼の珍しく曖昧な返事に、ゼロは訝しみながら肉を咀嚼する。その姿をじっと見つめ、ゼロがごくんと飲み込んだのを確認したところでキャプテンは尋ねた。
「おいしい?」
「肉か? 癖のある味だがあるがなかなか」
「フェンはどこに行ってしまったのだろうか」
「おいし…………ああああ!?」
まさか!
一気に血の気が引き、取り落としたスプーンが床に落ちた。静寂の中にカランと乾いた音だけが響く。
落ちたスプーンには目もくれず、キャプテンは動揺するゼロを視線で真っ直ぐに射抜いた。
まるでブラックホールのように何もかもを飲み込むキャプテンの瞳に捉えられ、ゼロは一切身動きが取れなかった。
込み上げてくる吐き気にゼロは口を手で覆う。
「まさか、そんな! 嘘だと言ってくれ、キャプテン!!」
足場が崩れ落ちる錯覚に襲われ、震え始めたゼロにも全く構わず、彼はひどくゆっくりとした似つかわしくない動作で鍋を指差す。
「お か わ り は ?」


「フェェエエエーーーーーーーーーーーーン!!!」


「ふぇーん?」
「あ、ここにいたか。ゼロ、こいつ朝からずっと俺のところに」
「うわああああああああああああああフェェエエエン!!!」
「ふぇ!?」
「ぐえっ!」
名を叫ばれ、ひょっこりと部屋の入口から姿を現したフェンに、ゼロはその真後ろにいた爆熱丸ごと体当たりする要領で思い切り突っ込んでいった。
腕の中にフェンを閉じ込めたはいいものの、そのまま勢い余ったゼロに胸に頭突きを食らわされた爆熱丸が、己を巻き込んで倒れ込みかねないゼロを支えながら何事かとキャプテンに目配せする。
「……今回はキャプテンが悪い」
「何故。私は真実しか言っていない」
「言うタイミングが考えうる限り最悪だ」
「不服だ。繰り返すが私は嘘は言っていない」
「うん……だからタイミングがな……」
フェンを抱き締めてびーびーと泣くゼロは始めからあてにできなかったので、キャプテンに事の始終を聞き、ゼロがこうなったいきさつを把握した爆熱丸だったが、その話の運び方ではまるでキャプテンが無情にもフェンを三枚におろした上、ゼロに振舞ったように聞こえるとは言えなかった。
彼が善意だけで行動していたのは明らかだったので、なんとも責めにくいのだ。
またゼロの想像力が多少豊か過ぎたとも思えたが、泣きじゃくっている本人を前にしてはそれすら発言できない。
ようやく見つけたラクロア復活への鍵が無邪気な生き物であったため、無残にも仲間に捌かれ、調理して食わされたと知った(勘違いだったが)時の彼の絶望と、無事を確認した今現在の安堵は想像に難くないので無下にもできず、もはや爆熱丸は黙ってゼロの背中をさするしかない。張本人たるキャプテンに泣きつくわけにもいかないだろうし。
これでフェンを抱き締めて泣きじゃくるゼロを抱き竦めて何とかあやそうとする爆熱丸の図の完成である。恐ろしい。
「あーはいはい、よしよし、びっくりしたなー」
よちよちと赤子をあやすような口調であやすと、思いっきり足を踏まれた。
「『おちょくっているのか貴様ぁ!! ほんとに、ほんとに全身の血が凍るかと思ったんだぞ!!』?」
爆熱丸が代弁してみると、ゼロはこくこくと頷いた。
主の尋常ではない様子に黙って抱き締められていたフェンがそっと腕から抜け出し、安心させるようにゼロの頬にすりすりと自分の体を擦り付ける。
「ほら、フェンももう泣かないでだと」
「……ああ」
フェンからのリアクションでようやく落ち着けたのか、ゼロは大きく空気を吸って息を整えようとする。
「すまないゼロ。君を傷つけるつもりはなかった」
寄ってきたキャプテンが見よう見まねでゼロの背中をぽんぽんと優しく叩くと、ゼロはゆるゆると首を左右に振った。
「あいじょうぶ……わたしのほうこそ、とりみだして、すまな……かっ………」
うっと言葉につまる。鍋の近くにずっといたキャプテンが動いたことで彼の纏っていた空気もつられて動き、それは本来ならば『食欲のそそるシチューのいい匂い』をゼロの鼻先に運んできたのだ。
氷入りの冷水をバケツ一杯分浴びせられたような空虚が瞬時に思い出され、先ほどまでとはまた違った要因で震えるゼロに、異変を察したフェンがさっと彼から離れた。
「うぐ……」
「!? ちょっと待っ―――!」
遅れて察した爆熱丸がゼロの両肩を引っつかんで自分から引き離そうとするが、遅かった。
「うええ…………」
「…………キャプテンぞうきん取ってきて……」
間に合わず、まともに受け止めてしまった爆熱丸の首元から胸にかけて、吐き出された半透明の胃液が垂れる。
吐き出し、息も絶え絶えにもたれ掛かってくるゼロと、やはりそれを払えずに抱きとめながら青ざめる爆熱丸をよそに、キャプテンは鍋と皿を回収する。
「私はタイミングが考えうる限り最悪らしいので、このタイミングで長官に明日の訓練の予定を聞きに行く。では」
「悪かった! すまん! 行かないでくれ! キャプテン隊長は誰よりも空気の読めるいい男です!」


「結局これなんのお肉なの?」
「月の輪熊だ」
「へえー、くまって食べられるんだ。……あ、本当だ、甘くておいしい。牛肉に近い感じ」
「ゼロには不評だった」
「まあね……タイミングが悪かっただけだよ。次からは気を付けようね」
「………」
「シチューはすっごくおいしいよ! 本当に初めて料理したの? ってくらい! だから元気出して」
「……しかし仲間を失意させては意味がない。君に私の手料理を食べてもらいたいと思って挑戦したのだから」
「キャプテン! 僕のお嫁さんになって!!」
しょんぼりとするキャプテンに掻き立てられ、たまらず叫ぶシュウトだった。