からっとした日差しがプールサイドを照りつける。
じりじりと太陽にあぶられながら、飛び込み台の縁に足の指をかけた少年少女達が息を潜める。
けたたましい蝉達の鳴き声の隙間を、真っ直ぐに貫くように笛が鳴った。

「よーし、おめーら今日はこれで終わりだ。遅くならない内にてきとーに帰れよ」
校舎の壁に取り付けられている時計を見て、松平先生がプールのあちこちに散らばっている生徒達に声をかける。
時針は3時頃を指していて、それでも夏の太陽だから、まだまだ正午のように暑い。
夏休み真っ只中の今日は水泳の補講の日で、体調不良で水泳の授業を休んだ生徒や、学校そのものを欠席した生徒は、
休んだ分を学校に来て泳がなくてはいけない。
学校を休んでこっそりお通ちゃんのライブに行っていた新八も、今日の補講に参加していた。新八がいるということは、
「なー新ちゃん、どっかでアイス買って帰ろーよ」
当然タカチンも言うに及ばず。プールサイドから声をかけるタカチンの崩れかけたリーゼントを見上げ、新八は頬を人差し指でかいた。
「あー、僕もうちょっと残ってるよ。ごめんタカチン、先帰ってて」

しばらくするとプールには新八とアメンボしかいなくなった。
「さーてと」
ぐっと伸びをしてから、新八はプールサイドの隅っこの倉庫へと歩く。シャッターを腰の高さまで上げて、埃っぽい中に入る。
ビート版の山の陰に隠された、目当てのものを引っ張り出した。
ビニールの筏。空気を入れて膨らませばそれなりの大きさになって、プールに浮かべてその上に寝そべって遊べるあれだ。
居残って泳ぐ練習をするというのは体のいい嘘っぱちで、新八の本当の目的はこれだった。
去年の夏、水泳の授業の監督にあたった銀八が持ち込んだもので、その日の3Zの水泳の授業は、
息止め大会だったり水中ビーチバレー大会だったり海パンずらし大会だったりと、目まぐるしく顔を変えていった。
はしゃぐ生徒達の中で、自分も水着に着替えた銀八はこれに寝そべり、ジャンプを読んだり昼寝したりアイスを食べたりとやりたい放題やっていた。
ジャンプを日除けにしてうとうとしていたところを、生徒達にいかだをひっくり返されるような悪戯もされていたけど。
(一回やってみたかったんだよね)
しぼんだいかだを抱えてプールに入り、埃をはたいて、新八は入り口を唇で挟んでそれを膨らませる。
そばに転がっていた、踏んで膨らませる空気入れは、ホースが途中で割れていた。
浮輪やビーチボールで遊んだことはあるけど、これに乗ったことはない。
銀八に言ってもお気に入りらしく貸してくれなさそうだったので、その時は諦めていたのだが、今年、夏休み前の授業でビート版を片付けていた時に忘れ去られたこいつを見つけたのだ。
しわくちゃになったビニールを撫でると現れた、透き通った青に一つ、夏の決心をした。
大きい分時間がかかったが、やっと空気を詰め終わり、水面に浮かべたいかだによじ登る。
組んだ手を頭の下に敷き、一息つきながら新八は空を見る。
眼鏡で矯正されていない視界に、まだらの雲がぼんやり見えた。空にラインを引くように、飛行機雲が真っ直ぐ伸びている。
落ちないように慎重に寝返りを打って、今度はうつ伏せになってみる。
足首を使ってバタ足の要領で前に進んだり、サーファーのように水をかいたりして一通り遊ぶけど、やっぱり一人じゃ物足りない。
(まあ、賑やかじゃないけど、こうして静かにたそがれるのも青春くさくて好きだよボカァ)
薬品くさい水の上、すぐ脇を通り過ぎたアメンボに強がる訳ではないが、新八はひとりごちた。

「お」
静かな廊下を、上履きをぺたぺたと鳴らしながら歩いていた神楽は、たまたま外に向けた視線の中に変わったものを見つけてその足を止めた。
誰もいないプールの水面に、一人ビニールのいかだに乗ってぼーっとしている男子生徒。
もう水泳の補講は終わっている時間なのに、一人残って何をしているのだろう…と考えるところだ。
が、神楽自身が今まで、補習の終わった教室で机に頬づき、ぼおっとしていたから、不思議に思うこともなく、気の合うやつもいたもんだと窓に近寄った。
あの生徒もさっきまでの自分と同じ、「何もしていない」をしている。
分厚いレンズを通してその姿に目を凝らす。
「!」
それが誰か認識した途端、神楽は窓に飛びついて声を上げていた。
「ぱっつあ〜ん!!」

ぎょっとして仰向けに寝転んでいたのを新八は慌てて起き上がり、声のした方、校舎を見上げる。
3階の廊下の窓から、神楽が顔を見せていた。
「神楽ちゃん!」
「なーにひとりで楽しいことしてるアルかー!」
窓枠に手をかけ、もう片方の手を口の横に立ててメガホン代わりにしている神楽に、両手をメガホンにして新八は答えようとするが、一層窓から身を乗り出した神楽にひやっとして思わず手の平を握った。
ただの爪先立ちから、脇を閉めて身体を持ち上げるようにして飛び上がり、ぐっと上半身を突き出す神楽は今にも飛び降りてきそうだ。が、
「すぐそっち行くアル!!」
とだけ言うと、すぐにかかとを床に下ろして廊下を走る。
ひとまずほっとして、新八は神楽を待つ。一分も経たない内に、フェンスの向こうから手ぶらの神楽がこちらに駆けてくるのが見えた。
「鞄はー?」
今度こそ手をメガホンにして新八が聞くと、神楽は走りながら靴と靴下を脱ぎ捨てるという器用さを披露しながら
「置き勉!」
と答える。
「今まで何してたの?」
「英語の補習の後、残ってせーしゅんしてたアル」
フェンスに指と爪先をかけ、がしゃがしゃ言わせながら登る神楽を見上げ、新八は会話を続けた。
「なにそれー」
「校庭でサッカー部の連中が練習してるの見てたアル。一人でナ」
「ああ、青春だね」
「0点のテストの裏に夢を書いて紙飛行機にして飛ばしたり」
「それ青春じゃなくてやけっぱちじゃないの?」
「『英語文化が私が高校生である内に滅びますように。っていうか小学生の内に滅んでいたらよかったのに』」
「やっぱやけだ」
「代わりに日本語が世界共通語になればいいヨ。それか中国語」
「あ、そっか。神楽ちゃん、ちょっと中国語喋ってみてよ」
「ずっと喋ってるアル。今もナ」
「それが中国語なら僕でもぺらっぺらじゃねーかアル」
新八が叫ぶが、神楽の口調の真似のつもりならつめが甘い。というか、神楽の口調は語尾のみにある。
「さっき、窓から飛び降りるかと思ってびっくりしちゃったよ」
「今は夜兎じゃないからナ! そんなことしたら大怪我ヨ」
髪飾りの房、セーラーの襟とスカーフ、スカートのひだを揺らしながら、神楽は天辺に辿り着く。
そしてフェンスを跨ぐではなく、その上に立った。
「かぐ…」
名前を呼んで、次に危ないよ、と新八が声にするよりも早く、待ちきれないように手荒く眼鏡をむしり取った神楽が、フェンスを蹴って宙に舞った。
新八に届く、高いところにある太陽の光が一瞬だけ、神楽の背中に遮られる。
落ちてくる青い目は、淡い桃色の唇と共に、にやりと細められ、その真下で黒い瞳が大きく見開かれた。
神楽は真っ逆さまに新八の上に落ちてきたのだ。
神楽がまき散らしたド派手な水しぶきに、いかだがひっくり返り、投げ出された新八はどぼんと間の抜けた音を立てて入水した。
こういう時、じたばたしては余計に息苦しくなると、人並みに泳げる新八は知っていたので、随分と驚かされたが、一旦沈むところまで沈み、プールの底を蹴って水面に向かった。
先ほどの神楽に比べればよっぽど大人しく水面を突き破り、新八は息を吸い込む。
それでもいきなりのことに咳きこみ、ぐっしょりと濡れた前髪に目をつぶったまま、新八は手探りでいかだを掴み、それに額をくっつけた。
何回かげほげほやって、額に貼りつく前髪を退かし、顔を上げる。
まず始めに、神楽の膝小僧が青のビニールを僅かにへこませているのが目に入り、そこから視線を上に辿っていく。
いかだの上で膝立ちになって新八を見おろしていた神楽と目が合った。
ビニールの緑味の入った青よりも、純粋に青だけの色をしている目が、すっと近寄ってくる。
膝だけでなく、神楽は肘をついて身を屈めた。鼻先が触れ合うには一歩距離を置いたところまで、神楽は新八に顔を寄せた。
余りにレンズが分厚くて、滅多に見えない青い目が、跳ねた水を被ったオレンジ色の前髪のすだれの奥から覗いている。
みーん…と蝉が鳴く声だけが、プールを満たしていた。
我慢比べに先に根を上げたのは新八で、苦笑するように柔らかく唇をゆがめた。
「近いよ」
それでも動かない新八から、神楽はすっと体を引いた。
「眼鏡ないから良く見えないアル」
しれっとする神楽に、同じく今は眼鏡をかけていない新八は、
「視力、悪いんだ」
と、尋ねると言うよりも確認するように口にする。
普段から眼鏡をかけている人にこう改めて聞くのもおかしな話だが、視力を矯正する必要が無く、レンズに覆われていない神楽の目を新八は知っているのだ。
「今は夜兎じゃないからナ」
浮かしていた腰をおろして、神楽はいかだに座った。
新八が掴まっているのは、長方形のいかだの短い方の一辺で、神楽は長い方の一辺へと体をずらして膝から爪先を水につける。
「きもちー」
水をばしゃばしゃやる神楽を、斜めから新八は黙って見つめていた。
小麦色と呼ぶにはまだ白いが、濡れたスカートが貼りついたふとももは確かに日に焼けていて、髪飾りにしまうには長さが足りなかった髪のかかるうなじも、半袖から伸びる腕も同じ色をしている。
この肌が四季を通して雪のように真っ白で、傘を差さなければ命に関わっていたこと、海水浴すらできなかった夏があったことを、新八は知っている。
そう感慨に耽っていたが、見られていると知れない角度から女の子の肌を見るのは不躾だった、と新八はそっと腕に顔を伏せた。
神楽が立てる水音を、腕に埋めた目をつぶって聞いていると、いきなり水が頭からかけられた。
びっくりして頭を跳ねあげると、いかだに腰かけたままの神楽が手を水の中に突っ込んで、新八がこちらを向いたタイミングに合わせて第二弾を放った。
「うわっ、もう!」
冠を振り振り、新八の髪から飛んだ水滴を顔に浴び、神楽は笑って第三弾を繰り出す。
「やったアルな、てめー!」
「神楽ちゃんが先にやったんでしょ!」
対抗して、新八も胸の前で手を重ね、水を押しやるようにして神楽にかける。それをひょいとよけて、神楽は新八に飛びかかった。
そうして存分に青春くさいことをして遊び、なかなか引っ込みがつかないものだから、先に体力の限界を迎えた新八がプールサイドに上がる頃には4時頃になっていた。
いまだ昼間の熱を溜めこんだコンクリートに焼かれながら、新八は空を見上げる。
眼鏡がないからやっぱり空に浮かぶ雲はぼんやりとしか見えなかったが、太陽が傾いてきているのは解った。
「もうギブ? ぱっつあん。情けねーナ」
言いながら、遊び相手がいなくなった神楽も、ぐしょぐしょに濡れたセーラー服ごと新八の右隣に寝転がった。
「ギブギブ、もうくたくた」
はーっと大きく息をついて、新八は仰向けになっていたのを横になり、右耳をコンクリートに押し付けた。
「何してるアルか?」
仰向けの神楽が首だけを傾け、新八に聞く。
「耳に水が入った時はね、こうしてあっついコンクリートに押し付けると出てくるんだ」
「マジでか。そういや私もさっきから耳の奥がむず痒いアル。きっと水入ってるネ」
髪飾りを外し、さっそく寝返って左耳をコンクリートに押し付ける神楽と、向かい合わせになった新八は、一時間前より僅かに赤みの差した神楽の顔を見て微笑んだ。
「よく焼けたね」
今は薄い赤色だけど、時間が経てば健康的な小麦色になる頬を神楽は、にっと唇の端と一緒に持ち上げる。
「今は夜兎じゃないからナ!」
大食いで、運動神経抜群だけど、今はだだの人である留学生は、めいっぱい太陽を浴びて笑っていた。