小気味の良い、すぱんという音をさせて襖を開いた新八がお妙の部屋に入ってきた。時刻は昼より少し前、障子から透ける光に、埃はきらきらしながら部屋を舞っている。割烹着を身につけた新八は、まず障子を完全に開いて、次に盛り上がった布団を引っぺがした。
「あーねうえ!」
布団の中で丸まっていたお妙は眩しそうにぎゅっと目を固くつむり、眉根を寄せて、日光から逃げるために更に丸くなって顔を腕に埋めた。
「料理の練習するんでしょ、起きてください!」
そんな姉に負けじと、新八は今度は敷布団を両手で掴む。ぐいぐい持ち上げて、お妙を布団の上で転がし、畳の上に移動させようとする。
「んー…もうちょっと寝かせて…」
抵抗して敷布団にゆるくしがみつくお妙。昼に寝て夜に働く生活をしている彼女なので、この時間帯はいつもならまだ眠っている。しかし昨日は仕事が休みで、彼女が今日に備えてぐっすりと眠ったのを知っている新八は、それでも一日くらいでは生活リズムを整えるのは難しいと解っているのだが、心を鬼にして布団を引っ張る手を止めなかった。
「だめです。お嫁に行ってもそれやるつもりですか」
なにせ料理を教えて欲しいと新八に頼んだのはお妙で、それも近い将来旦那になる人の為に習いたいと言うのだから(いや、実際は言っていないが態度で解る)頼まれた時から、眠いから勘弁しては受け付けないつもりでいたのだ。
「こっちに来てもらえばいいじゃない」
ほら、突然料理を習うと決めた理由なんて聞いても絶対に話さなかったのに、こうして新八がかけた鎌にお妙はあっさり引っかかった。
「そういう問題じゃないでしょ。旦那さんより早く起きて、朝ごはんをつくって一緒に食べて、玄関までお見送りするのが姉上の役目なんですから」
「うん、そうね。…でも、あと五分でいいから……」
ついに新八はお妙の体の下から布団を引き抜き切って、お妙は畳の上にころりと転がった。
それでもむにゃむにゃ言っているお妙に、新八はずれてもいない眼鏡を押し上げる。
「…わかりました。じゃあ玄関で曲がったスカーフを直すのは僕の役割になりますね」
それを聞いて瞬時に両手を畳につき、がばっと起き上がったお妙に、思わず新八は笑いそうになる。
「だめよ新ちゃん、行ってらっしゃいは私がするんだから!」
でも堪える理由も特になかったので、我慢せずに新八はふふふと笑った。

台所にふたり並んで立ち、新八は「まず卵焼きから始めましょう」と冷蔵庫から卵を取り出す。いっつも例のダークマターになってしまう卵焼きだが、隣で新八が良く様子を見て、ちょっとでもおかしい要素が見つかれば即止め、その度に軌道修正を図って進めていけば、「かわいそうな卵」だって「お気の毒な卵焼き」くらいにはなるに違いない、と新八は踏んでいた。甘かった。
卵をフライパンで焼く以前の、お椀に割った卵を落とす初歩の初歩でお妙は躓いていた。
必要以上に力んでしまって、手の中で卵をつぶしてしまうのだ。ということは、これまでお妙がつくってきた卵焼きには殻が入っていたということになる。まあ、あまり考えるのはよそう。
「姉上、ちょっと休憩しましょう」
そこらじゅうに散らばった卵の殻を集めながら、お妙を見る。今もまた、卵を割ろうとして、お妙の手の中でぐしゃりと殻と黄身が潰れた。
「新ちゃん、やっぱり志村家の食卓はあなたに任せるわ」
調理そのものは楽しんでいるからなのか、それともやけくそなのか、にこにこしたままお妙が言った。そうしてやりたいのは山々だが、新八は首を左右に振った。
「だめですよ、姉上が嫁入りしようが近藤さんが婿入りしようが、どっちにしろ僕は一緒に暮らしませんから。嫁入りならここに残るし、婿入りなら出て行きます」
お妙と近藤の距離がちょっとずつ縮まってきているのを見てから、ずっとそのつもりでいたのを、今初めて口にする。玄関でスカーフ云々はお妙を起こすための言葉の綾だ。
するとお妙は笑顔をやめて、ぱちくりと瞬いた。
「どうして?」
「新婚家庭にお邪魔するほど、僕は野暮じゃないですよ」
いつか近藤も、彼がお妙たちの所に来るか、お妙たちが彼の所へ行くか、新八に相談を持ちかけようとしていたけれど、その時から新八は、もしもこのふたりがそんな風になったとして、何故そうなるのだと思っていた。初めから新八も生活の中にいれるつもりの近藤、の横に姉と一緒になって収まるのはちょっと気が引ける。そりゃあ、その気持ちはとっても嬉しいけど。
「えええ、困るわ。私はこの通りだし、近藤さんもお料理できそうにないし」
新八の着物の袂を握り、かかとを上げて爪先立ちしたかと思うとすぐに下げて、また上げて…を繰り返し、お妙がぴょこぴょこ体を揺する。お菓子の棚の前で立ち止まり、親の服の裾を握る子どもの、お願いの動作を思い出させた。
しかしそんな仕草で籠絡されるような新八ではない。近藤なら一発KOだろうけど。
「姉上よりかはなんとかなるでしょ。あの人だってサバイバル料理くらいならできそうだし」
きっぱりと言って、新八は志村家の食卓の未来を近藤に託した。

「え、俺? はっははははは! むりむり料理なんて!」
甘かった。新八はがっくりうなだれる。
「武州にいた頃は総悟たちに食わせてたりもしたけど、いやあひどい出来だった。トシの方がまだ上手くやれるよ、最後のあれでブチ壊しだけど」
近藤はけらけらと笑う。仕事が終わり、志村家にやってきた近藤を客間に通し、さっそく新八は今日あったことを話したのだ。そしたらこの答え。
「近藤さんも覚えてください。姉上にも教えますから、一緒に。じゃないと困ります」
「おお、そうだな。新八くん一人に任せるわけにもいかんしな」
やっぱりお妙だけじゃなくて新八とも暮らすつもりで、それをさも当然のように疑わない近藤に、新八は喉がほんの少し熱くなった。目の前に置かれた熱いお茶には、口をつけていないどころか湯呑にすら触れていないのに。
「そうじゃなくってですね」
近藤からも、その隣に座るお妙からも目をそらし、新八は一呼吸置く。近藤の曇りのない目も、お妙の心配そうな目も、まともに合わせていたら決心が鈍る。湯呑を手にして、一口飲んで、湯呑の表面を親指で撫でた。
「ん? どうしたんだい、新八君」
いつまでもそうしているものだから、近藤が机に顎を近づけて新八の顔を覗きこむ。
湯呑を置いて、新八は背筋をぴんと伸ばした。
「僕はおふたりとは暮らしませんから」
それでも目を合わせられなかったので、ふたりのつむじ辺りを見て言い切る。
お妙に言った時のように近藤もまた、きょとんとして、やがて恐る恐る聞いてきた。
「……俺のこと嫌い?」
「いいえ」
そこは勘違いしてもらっては困るので即座に否定する。その時ばかりは視線を下ろして近藤と目を合わせる。唇の動きだけで「あにうえ」と呟いた。声に出したかったけど、さっき潤したばかりなのに喉が上手く動いてくれなかった。
でもちゃんと唇の動きだけで伝わったようで、近藤はにっかりと笑い、お妙は微笑んだ。
「僕だって、本当は姉上と近藤さんと暮らしたいです」
その笑顔に促され、新八はつい本音を喋ってしまう。ぽろっと口から転がり出てしまったことに慌て、両手で口を押さえてからふたりを見る。お妙も近藤も笑顔のまま、うんうんと頷いていた。
「でもね、やっぱり新婚さんの家庭はふたりきりであるべきだと思うんです。ふたりだってコブつきなんていやでしょ」
「「ぜーんぜん」」
息ぴったりに首を左右に振る。新八だって、自分が彼らに疎ましく思われているだなんてこれっぽっちも思っていない。でも、でもだな。
「どうしてそんなにこだわるんだい? 新婚とか関係なしにさ、君が出て行っちゃこの道場は主を失うし、お妙さんだけが俺のとこに来ちゃ門下生がいなくなっちゃうよ。恒道道場には新八君と姉上が揃ってないと」
「そうよ。私と新ちゃん、どちらかがいない道場なんて、きっと父上も寂しがるわ」
机に腕を置いて乗り出してくるふたりに見つめられて、かつその顔が物悲しげだったので、新八は言葉に詰まった。
当たり障りのないことを言って乗り切るつもりだったが、父上のことまで出されてしまっては、それだけでは新八がここまで拒む理由としてはパンチが弱すぎる。新八だって父の道場を姉と一緒にこれからも守っていきたいし、幸せなふたりを間近で見ていたい。
でもそういう訳にはいかない、と勝手に新八は思ってしまっている。
「だって…あの……」
こうなったらストレートに、こういう理由があって僕は遠慮します、と言うしかないのかもしれない。
「僕が一緒に住むことで、その…どうしても支障って出てくると思うんですよ」
それでもやっぱり、いきなりずばりと言ってしまうのは躊躇われて、また遠回しな言い方をする。
「「どんな?」」
首を傾げる大人たちに、新八は顔を覆いたくなった。確かにオブラートには依然包みっぱなしだが、そろそろ察してくれてもいいんじゃないか。
黙ってしまう新八に、お妙と近藤は顔を見合わせる。そして同じタイミングで同じ方向に首を傾げた。それがあんまり無邪気な仕草だったものだから、一人で気にしている新八はとうとう匙を投げる。
「………やっぱいいです」
今日一日で決着はつけられそうにない、また日を改めよう。
新八の言いたいことはやっぱり解らないが、彼がこの場ではうやむやにしてしまう気でいるのは良く解った近藤は机に手を置いて身を乗り出した。
「えええええ! 結局言ってくれないの!?」
「新ちゃん、ちゃんと言ってちょうだい。気になるわ」
それにお妙も続く。ふたりがより身を乗り上げるごとに新八は身を引くが、とうとうお妙の右膝が机に乗せられたところで、新八は腹を括るはめになった。
「笑いませんか」
胸の前で両手をかざし、ふたりを座布団の上に戻して新八は予防線を張る。当然首を縦に振るお妙と近藤の顔はなるべく見ずに、湯呑にはられたお茶に視線を注ぐ。
「新婚家庭は、寝室だけじゃなくて、えーと…家そのものが、まるっと」
ぼそぼそ、呟くように喋るので、挟んでいる机の分しか離れていないお妙と近藤ですら彼の声は良く聞こえなかった。それが、更にここで一層小さくなり、
「…だって聞いたから……です」
肝心の部分が聞き取れないまま締めくくられた。
「え? なあに?」
「ちょ、新八君もっかい言って。新婚家庭は家そのものが何?」
そこまで聞こえたんなら後はもう解るだろ! 自ずと!
普段は平気でアウトなことをぽんぽん言うくせに、おかしなところで無垢なこのふたりに、気を遣っているのがあほらしくなって、ついに新八は声を荒げた。
机を両手でばんと叩き、膝立ちになって背を僅かに反りかえらせる。
「だぁあっ! もうっ、一回しか言いませんからね! 愛の巣! あ・い・の・す! 新婚家庭は家そのものが愛の巣だって聞いたんです! 寝室はもちろん、風呂場や台所や………」
勢い良く捲し立てる新八だったが、自分を見上げるお妙と近藤がその剣幕と内容にぽかんと口を開けたのを目の当たりにして、「もちろん」のところから段々尻すぼみになり、「台所」ではほとんど呟きの声量になり、そこから先はついぞ言葉にならずに……最後には涙目になって、どかんっ! と爆発した。
耳の穴から湯気をしゅうしゅう噴き出してもおかしくないくらいに顔を真っ赤にして、新八はぶるぶる震えながら正座しなおす。ぽっかり口を開けたまま、その様子を目で追っていたお妙と近藤は、居心地悪そうな彼に見上げられてやっと我に返った。
ほんの数秒間、耐えきれない沈黙が続いて、まず初めに動いたのはお妙だった。
「やだ、何言ってるの新ちゃん!」
じわじわと赤くなっていく頬を両手で覆う。その真横で近藤も、おかしな汗を流しながらも解りやすく赤面して、
「そ、そうだぞ新八君、そんなん言ったらあの、あれ……上手く言えないけど、とにかくいけません! 大人に遠慮して、そんな心配しなくていいんだから。ね、お妙…」
お妙と目を合わそうとした近藤が見たのは、頬を覆った手の平には当然収まらない耳と首筋で、そこすらもほんのりと赤く染まっていた。
名前を呼ばれ、その声につられるようにお妙は近藤に顔を向けた。
頬をはんなり染めたふたりが、時が止まったかのように、世界は自分たちだけを残して他のみんなを隠してしまったかのように、見つめ合う。
あ、もうだめ。当然世界に隠されているわけもなく、間違いなくここにいる新八は居た堪れなくなって、思わず机に突っ伏した。ごいん、と額がぶつかる鈍い音が響く、が、このふたりは今、お互いの心臓の音しか聞こえていない…。

翌日、話を聞いた銀時は、爪を切る手を休めずに、机を挟んだ向こう側のソファーに座る新八に問いかけた。
「で、結局三人で暮らすわけ? お前んちに?」
あれから新八は机に伏せたまま、ふたりの気が済むまで死んだふりを続けた。それでもなかなかふたりきりの世界から戻ってこないので、最終的には匍匐前進で客間から逃げ出そうとした。そこでようやく戻ってきたお妙と近藤は新八を、彼が落とした爆弾発言をする前と変わりなく、一緒に暮らすように言ったのだ。ほっぺたをぽっとさせたまま。
「はい、そうなりました」
そこまでされてはもはや意固地にもなれず、新八はとうとう頷いてしまった。ふたりの根気に負けたのもあるし、さっさと頷いてその場から離れたかったのもある。
「いいのかねえ、思春期のガキ、それも弟がいちゃ、やることもやりにくいんじゃね?」
爪を切り終わり、敷いていた新聞紙ごとゴミ箱に突っ込んで、銀時はテレビを横目で見る。
さっきから万事屋のテレビは、落語家の男と若い女性が司会を務め、新婚の男女を呼んで、その慣れ染めや生活について語る番組を放送している。
「ですよねえ、僕もそう言ったんだけどなあ」
新婚家庭は寝室だけじゃなく…と言っていたのは、この前出演していた新婚ふたりの、男の方だった。
「まあ、道場のこともあるし、荷物まとめて出て行くのはちょっと難しそうだけど、姉上と近藤さんがちょっとでも不都合に感じてるようだったら、こっちに泊りっぱなしになるかも。その時はよろしくお願いしますね」
「おー」
頭を下げられ、銀時は軽く返事をする。
「神楽ちゃんもよろしくね」
定春のいた和室から、定春と一緒に出てきたばかりの神楽に新八がそう言うと、
「ん? おーヨ、任せるヨロシ」
解っていないながらも、彼女も軽く片手を上げた。