とある宿屋の浴室で、ピンク色の髪を小さな二つ結びにして湯に浸かっていたビュティは、目の前の人物――正確に言えば人ではないのだが――の行動に目を細めた。
身長が浴槽の底まで無いので細くて白い腕を突っ張って、オレンジ色の小さな体を沈めまいと壁に右手、浴槽のふちに左手をついて踏ん張っている。が、踏ん張るといっても水の中では体は軽くなるし、元々の体重がそんなに無いので、腕だけ固定し足を前後にゆらゆらさせている程度だ。
頭には白いタオル、湯船にはゴムのアヒルが三つ、水鉄砲が一つ。最後に上機嫌な音程が急に上がったり下がったりする、聴いてて心が安らぐとはとても言えない歌声。
「あのさあ、首領パッチくん」
ビュティが話しかけると、首領パッチは歌いながらも歌声の音量を下げ、眉毛をひょいと上げ、何だ?という顔をした。
「他の歌ならまだしも、お風呂で『君が代』歌わないんで欲しいんだけど」
正直に思った事を言うと、さっきまで機嫌良く歌っていた首領パッチはぴたりとそれを止めた。そして、ムッとあからさまに不機嫌になった。
「なんで『君が代』だめなんだよ」
別に君が代だから止めて欲しいのでは無く、音痴だから止めて欲しいのだとビュティは言いたかったが、そのような事を言ってこのような滑りやすい風呂場で首領パッチを怒らせたらとても危険だと思い直して言わなかった。
暴れまわられて、もし怪我でもしたら、首領パッチはすぐ治るだろうが、とばっちりを受けてビュティまでもが怪我を負うとなると困る。
そうして何もビュティが言わないでいると、今度は首領パッチが『ハッピー・バースディー』を歌いだしたので、一体誰の誕生日を祝っているのだろうと考えながら、目の下ぎりぎりまで湯に浸かり、ぶくぶくと湯の中で勢い良く溜息をついた。湯の中で吐いた息は大小の泡となり、水面に浮き上がり、しばらくただよっていたかと思えばすぐに消えてなくなった。
その様子を見ていたビュティだったが、息苦しくなったのと首領パッチが歌うのを止めて声を上げたのとで湯から顔を出した。
「うわお前、そんな事するなんてガキじゃねーの」
との大声での発言にビュティは眉をひそめ、目を細くした。狭い風呂場なので声が良く響く。
確かに子供じみた行動だったが、ゴムのアヒルを水鉄砲で狙って打っているような奴には言われたくない。いつの間にか首領パッチは浴槽のふちに立っていて、ビュティに横顔を見せる位置にいた。
「それに風呂の湯って汚いんだぞ」
またもビュティは眉をひそめた。そう言う首領パッチは靴を履いたまま湯船に浸かっているというのに。というよりその足の青い物は靴だろうか、それともこれで裸足なのだろうか。それすら見当がつかない。
「首領パッチくん、そんな所に立ってたら危ないよ」
「へーきへーき」
そう言った途端、首領パッチは石鹸の泡を踏み、思いっきり湯の中にダイビングするはめになった。湯が跳ねてきたせいで前髪が額に張り付きなりながらも、言ったそばから、と呟いてビュティは首領パッチを両手で抱き起こした。
「ばばば、鼻に水入った!つーんってきた!!」
「はいはい。危ないからここで大人しく浸かってなさい」
体育座りをしたビュティの膝小僧に、ちょこんと背中を向けるように乗せられた首領パッチはつまらなさそうに足をぶらぶらさせた。
「…首領パッチくんって女の子とお風呂入ってても大して何も無いね」
何かあって欲しいわけでは無いのだが。
「私くらいの美しさだと他の女は嫉妬すら忘れて私に構ってもらおうと躍起になるのよね。ええ、解っているわ、あなただって私に構って欲しいのね。…パチ美ってば罪な女」
なんか悔しいとビュティは思った。私と一緒にお風呂に入っても『大して反応が無い』から、『少しは反応が有る』ようにしてやろうとなんとなく、それもぼんやりと考えて言ってみた言葉も、女装でひらりとかわされる。
なんか悔しい。どこがどう悔しいのかは自分でもよく解らないが、それでもなんか悔しい。
「てかよぉ、お前14のわりには色気無いからな。そんなのと一緒に風呂入ってよくじょーしろって方が無理だろ」
膝小僧の上の首領パッチの台詞にビュティは迷った。
言ってしまおうか、言わないでおこうか、自分が今思ったこと……ではなく、ずっと思っていた事を。
相手がどんな反応をするか知りたいのだ。
ええい、言ってしまえ。どうせ軽く受け流されるか明日には忘れられているかに違いない。
「私は」
ビュティが反論しだしたと思ったのか、首領パッチはビュティの方を向いた。どうせ喧嘩じみた言い合いになるのだろう。いつもの事だ、と首領パッチはビュティの言葉に耳を傾けた。
「私は首領パッチくんに欲情しているけどね」
そのとたん、首領パッチの口元がひくっと引きつり、ビュティは何事も無かったかの様に首領パッチを洗い場に下ろし、湯船から出、首領パッチは、えええ、ちょっと辞典で欲情の意味調べ直そう…もしかしたらオレの勘違いかもしれねーし、と固まり、ビュティは何事も無かったかの様に体をタオルで拭き、ゆかたを着て、首領パッチと目が合わないように注意しながら鏡を見て、そこに映る自分に告げた。
「軽く受け流されるの方じゃなかったよ。だから、明日になったら忘れられてるの方、かな」