濃い紅茶の色をした空につむじを向けて、翔子の漆黒の髪は、優しいだいだい色の光をきらきらと反射させる。
一歩歩くごとにさらさらと揺れるそれを背中に流し、翔子は傍らの雄二の名前を呼んだ。
「……雄二」
「ん?」
ぞんざいに鞄を脇に挟んで帰路を歩んでいた雄二は、分かれ道に差しかかったせいで立ち止まった翔子に合わせて足を止める。
「……明日、楽しみにしていて」
沈みかけの太陽を背負ってそう言う翔子に眩しそうに目を細めながら、雄二は頭の中で日付を確認する。
「明日、明日…えーと…ああ」
真っ先に思い浮かんだのは、街中ラッピングされた光景だった。
この時期になると、派手でごちゃごちゃした飾りやリボンで街中がピンクや白や赤で溢れかえる。
「毎年毎年、飽きないなお前も」
ここ数年間、一回も欠かすことなく愛情たっぷりのチョコレートを雄二に送ってきた翔子は、この行事を迎えるふたりの間では恒例になった、照れた微笑を浮かべる。
「……だって雄二が好きだから」
俯き気味にしているせいで、垂れた髪が翔子の顔を僅かに隠す。
興味の無い素振りをしながら、(実際に彼はそういった行事には興味を持つタイプではない。のだけれど、翔子のことは別なのだ)結局はぶっきらぼうにチョコレートを受け取る雄二は、そんな風にストレート過ぎるボールを投げてくる翔子に中てられて、ぐぐぐと口の中だけでちっぽけな突っ込みを繰り返した。


翌日、昼も過ぎたころにやっと目覚め、キッチンに下りてきた雄二が見たのは、エプロンを身につけた翔子だった。
「………おい、なんでお前がここにいる」
パジャマ代わりのスウェットに無造作に手を突っ込み、尻をかいていた手を止めて、その姿を見つけた途端に雄二は無表情でそう言い放った。布団の中に置いて来れずに引きずってきた眠気が、却って覚めていくようだ。
「……おはよう雄二」
しかし翔子はそれには答えず、キッチンに立ったまま軽く上半身を捻って挨拶をした。
「雄二ったら、そんな言い方しなくていいでしょう? せっかく翔子ちゃんが来てくれてるのに」
その隣に立っていた雄二の母、雪乃は体ごとこちらに向けて息子を軽く叱る。
雪乃のことだから、またほいほいと翔子を家に上げたのだろう。
そのせいで息子の命が何度危険に晒されているか、全く解っていないのだ。
「翔子ちゃん、何か手伝うことない?」
「……大丈夫。お義母さんの手を煩わせることはない」
助手のように翔子の隣に控えていた雪乃の申し出に、翔子は真剣な表情で手元に集中したままそれを断る。
腕前はとんでもないが料理することそのものは割と好きな母は、少し残念そうに、しかし同時に翔子を頼りにして頷く。
「そう? うん、そうね、翔子ちゃんなら大丈夫よね。じゃあ、お友達と約束があるから出かけてくるわね。お夕飯はちょっと遅くなっちゃうかも」
ハンドバッグを手に提げ、雪乃は残るふたりに手を振る。
「んー」
「……いってらっしゃい」
テーブルの上の新聞を捲りながらの雄二は適当に、翔子は一度手を止めて雪乃を送り出した。
一旦新聞を手放して食パンを取り出し、トースターに入れてつまみを回す雄二の背中に、翔子が声をかける。
「コーヒー? 牛乳?」
「自分で入れる。続けてていいぞ」
冷蔵庫から冷えた牛乳パックを取って、グラスに注いだものを飲みながら、雄二は翔子に近づく。
「変なもの入れるなよ…?」
翔子の背後から、彼女の手元をひょいと覗きながら雄二は釘を刺しておく。
翔子が包丁で刻んでいるのは案の定チョコレートで、ふたつのボウルにはそれぞれ、細かくなったカカオチョコとホワイトチョコが入れられていた。
「……心配なら、そこで見ていて」
首を真上に向けて、翔子が呟くように伝える。翔子を見下ろしていた雄二とばっちり目が合い、なんとなく気まずくなって、雄二はグラスを持っていない手を翔子のつむじに添え、壊れものでも扱う手つきでそっと押して前を向かせた。
「喉渇かないか」
「……少し」
「牛乳でいいか」
「うん」
新しいグラスに牛乳を注いで、翔子の邪魔にならない位置にそれを置く。
ジャムを塗ったトーストかじりながら雄二は新聞を捲る。
「昼飯は?」
「……食べてきた。肉じゃがつくったのがそこのお鍋にあるから、雄二はそれ食べて」
「お、サンキュー。わざわざつくってくれたのか、悪いな」
「……花嫁修業の一環」
ばきん。雄二が思わず箸を折る音がキッチンに響いた。
朝食と昼食をいっぺんに取った雄二は、スウェットから着替えてキッチンに戻る。
湯煎で溶かしたチョコレートの甘い香りがほのかに漂う。
聞こえるのは雄二が部屋から持ち出した漫画のページを捲る音の合間合間に、翔子の操るスプーンがボウルにぶつかる音くらいだった。
「……雄二、あーん」
「あー」
椅子にどっかり座った雄二に、シンプルなエプロンの裾をひらりと翻して寄って来た翔子は、チョコを掬ったスプーンを差しだす。
雄二が銀のスプーンをくわえ、頃合いをみて翔子はそれをそっと引き抜いた。
「……おいしい?」
「ん。でもこれ、売ってるのを溶かしただけだろ」
「……そう…だけど、ちょっとひどい」
「冗談だ、冗談」
苦笑気味にそう言うと、頬を膨らませていた翔子は、雄二の手から本を取り上げた。
テーブルの上にそれを置いて、くるりと背を向けてチョコレートに戻っていく。
仕返しのつもりなのかもしれないが、文章ばかりの分厚い本でもないから、すぐに読んでいたページを見つけられる。
チョコレートを型に流し込んで、冷蔵庫に入れ、ミトンを外しながら翔子が再びこちらにやって来る。
「……これ、余ったから食べていい」
溶かしたカカオチョコとホワイトチョコをふたつのマグカップになみなみに注いで、クッキーや小さくちぎった食パンを乗せた皿と一緒にテーブルに置く。
後はチョコが固まるのを待つだけになった翔子は、雄二の膝をぺちぺちと叩く。
椅子の上で胡坐をかいていた雄二は、その合図に足を伸ばして座りなおした。
雄二の腿に手をつき、翔子はそうっとそこに腰を下ろす。
「……重い?」
「別に」
かと言って、歳の離れた小さな子どもではないのだから軽いわけでもないが、苦しくはない、心地良い重みだった。
次いで背中を預けられ、胸に翔子の頭が擦りつけられる。
チョコレートの甘い匂いと、黒髪が含む水とシャンプーの匂いが混ざり、雄二の鼻をくすぐった。
若干身を屈めて、翔子の頭に顎を乗せる。
翔子を囲むように腕を回し、「読みにくい」なんて言いながら雄二は単行本の続きを読もうとする。
すると、翔子が雄二の腕にちょんと手を置いて僅かに伸び上ろうとしたので、雄二は腕を下ろして更に読みにくくしながらページを捲る。
「……面白い?」
「まあ暇つぶしにはなるかな」
「……このキャラクター、さっきも出てきたけれど口調が違う。兄弟?」
「いや、別人。描き分けできてないだけだ」
「……雄二が喋ると、頭がかくかくする」
翔子のつむじに顎を乗せたまま喋っていた雄二は、それを聞いて顎を浮かせ、彼女の頭に触れないようにする。
「……だからって、別に嫌だと言いたいわけじゃない」
そう言ってから、翔子はもぞもぞと身じろいで、体の正面を雄二に向けた。
「よっと」
雄二は単行本をテーブルに放り投げ、翔子の脇を抱えて軽く持ち上げて、座らせ易い体勢をとる。
再び膝の上におろすと、翔子がもたれかかって来た。
雄二の胸板に頬を擦りつけ、翔子は夢を見るようにまぶたを降ろす。
一拍遅れてついてくる髪がふわりと広がり、雄二はなんとはなしにそれを掬う。
さわり慣れた、手に馴染む髪を一房手に取って、毛先を弾く。
二人分の体重を乗せた椅子の足が、きしりと控えめな音を立てた。
ひやりと冷たい髪を指先で遊んでいると、翔子がますます体を密着させるように押し付け、ぐっと伸びあがった。
膝を立てないように気をつけながら、翔子は雄二と同じ高さまで背を伸ばして、口づける。 そうっと触れるだけのキスをして、離れ、翔子は自分の唇を親指の爪でなぞった。
「……雄二、唇かさかさ」
なじるように、じっとりした目で見上げられる。翔子はごく最近、同じことを雄二に言ったばかりだ。
しかし、雄二はすっかり忘れてしまっていたようで、ぺろりと舌で唇を舐めて確かめた。
「季節が季節だしな。乾燥してんだろ」
「……男の子ってみんな、そういうところに無頓着でいけないと思う」
「そう言われても、それが男ってもんなんだからしょうがない。別に気にならないし」
「……雄二は気にしないとだめ」
ポケットからリップを取り出し、キャップを開けて指先で筒の底をくるくると回す。
口元に近づけると、雄二は唇を軽く結んだ。
荒れたそこにリップを滑らせる。
「……かさかさだと、ちょっと痛い…」
「これから気をつける。なるべくな」
いまひとつ真剣味にかける口調の雄二に、翔子はむうと頬を膨らませた後、頬を火照らせて彼の胸元に額をくっつけた。
「……わ、私がいつキスしたくなってもいいように、ちゃんと手入れしてて欲しい…」
げほげほ! と雄二は盛大にむせ込んで、「あー」だの「うー」だの唸っていた。
それが雄二の了解の合図なのを知っている翔子は、雄二に頭を預けたままこっそりと笑った。
「あ、でも外ではやめろよ。あと他に誰かいる時も」
牽制のつもりなのだろうが、それでは言外に翔子の先程のお願いを聞くつもりなのをわざわざ口にして言っているようなもので、そのへんは雄二もバカである。
「うん」
「よし、いい子だ」
しかし、翔子は翔子で幸せいっぱいで、それを指摘すればますます雄二を内堀に陥れることができるのに、見えないしっぽをふりふりさせて頷くだけだった。雄二が絡むと賢い頭が途端に鈍くなるか、極めて危険な方向に鋭くなるか、どちらか両極端になるのが翔子だ。
頭を撫でられて、ハートマークをいっぱい飛ばしていた翔子だったが、こうぴったりとくっついていると、もっと素敵なことが欲しくなってしまう。
「……いい子にするからご褒美が欲しい」
うっとりした表情で、翔子は雄二の手に頬を擦りつけた。
柔らかい頬が、雄二の大きな手に包まれる。
「おー……」
同じく、年相応の衝動がむくめいていた雄二は、飾り気のない返事をしながら、翔子の体に手を回す。
ちゅっと一回、あやすように額に口づけて、雄二は翔子のエプロンの肩紐を外す。
服の裾を持ち上げて、頭と腕からそれを抜く。摩擦で起こった静電気に、翔子の髪が何本もはねた。
手の平で押さえるように髪を解く翔子の脇から手を伸ばし、雄二は薄いグリーンの下着のホックを外そうとする。
何回やってもスムーズにいかないそれに苦心している雄二を見るのは、翔子のお気に入りだ。
優越感といったほんの少しサディステックが混じったものではなく、単純に可愛いと思うのだ。
やっとそれを外せた雄二が、ブラを隣の椅子に放る間、自分の格好を見下ろした翔子は、 「……まにあっく」
そう零した。
「うるへー。男の永遠のロマンだ」
二の腕でかろうじて留まっているエプロンは剥き出しの胸に申し訳程度に引っかかり、翔子の肌は冷たい空気に晒される。
肩紐を掴み、エプロンを直そうとする翔子の背中に手を添えて、寄りかかるようにして雄二はテーブルの上に置かれたマグカップを手に取る。
一緒に置いてあったスプーンで中身をかき混ぜ、掬ったホワイトチョコを一口翔子に食べさせる。
雄二は新たにチョコを掬って、翔子が直したエプロンを引っ張って再びはだけさせ、それを彼女の胸の上で傾けた。
「……ますますまにあっく」
薄くクリーム色がかかったホワイトチョコが、二つの膨らみに別れる直前の部分に垂らされるのを見て、翔子は雄二の服をきゅっと握る。
「……食べ物を粗末にしたら駄目って、習わなかった」
「覚えてないな、バカだから」
「……バカは関係ない」
ぬるくなったチョコレートが、谷間にとろりと流れ落ちる。
もう一掬い、今度は隆起に差しかかるか否かのところで、横に線を描く。
つうっと流れていく白いチョコは、翔子をむずがらせた。
たっぷりと垂らしたチョコレートを、雄二はスプーンの背で円を描くように広げていく。
冷えた銀がチョコ越しに肌の上を滑る度、翔子の頬は徐々に赤く染まっていった。
肌の色とはまた違った白が塗りたくられた乳房に、雄二が指で触れると、それまで大人しくしていた翔子が息を詰まらせた。
さっきまでの無機質なスプーンとは違った、わずかに荒れた指先が翔子の胸の輪郭を撫でる。
「ふは…」
翔子の唇から熱を持った息が吐き出される。
ぱくん、と雄二がてっぺんを食むと、投げ出されてぷらんと椅子の外に垂れていた翔子の爪先が跳ねた。
「あま」
雄二は至って簡素な感想を述べる。頬に触れる髪を伝うようにしてすぐ上を見上げると、顔を真っ赤にしている翔子と目が合った。
ばちんとロックされたようにお互い固まってしまって、たっぷり十秒ほど見つめ合ってから、大慌てで雄二が余所を向く。
していることがことだから……というのはもちろん、普段やられ役に甘んじて翔子にいいようにされている自分が、反対に彼女をいいようにしていて、且つ特に抵抗もされずに受け入れられている現状が妙に気恥かしい。
日常ではあまり表情に変化のない翔子が、今だけは顔を真っ赤にして唇を歪め、迷子のような不安げな顔をしているのも、もうなんだか駄目だ。
はぁ…と翔子が詰めていた息をそろりと吐き出した。
それをきっかけに雄二は翔子に向き直る。
しかしなかなか動き出せない雄二に、翔子はもじもじしながら彼の服の裾をつまんだ。
「………雄二」
「…ああ、うん。翔子はどうしたい」
翔子に名前を呼ばれてやっと、雄二は彼女に聞いて仕切り直す。
「……雄二の好きにすればいい」
「せっかく聞いてんのに、欲がないよなぁ」
「……私は雄二とこうしているだけで幸せ」
真顔で言う翔子に中てられ、雄二はぐうっと押し黙った。
一方、軽く握った拳を口元に持っていって何か考え事をしていた翔子は、
「……あ、あった。一つだけ」
握った手を緩め、雄二と目を合わせた。
「言ってみろ」
「……雄二のホワイトチョコ――」
「女の子がそんなこと言うんじゃありません! めっ!!」
ぱちん、と小気味のいい音を立てて、雄二は片手で翔子の口を塞いだ。
「あ、悪い」
思ったよりも勢いがついてしまったようで、翔子がきゅうっと大きな目を細めた。
手を離すと、言葉を遮られて拗ねたのか、それとも驚かせられたからか、翔子はむすっとしてそっぽを向いた。
機嫌を悪くしたか、と雄二が思うよりも先に、翔子はぴんと思いついたように目を僅かに大きく開いて、動き出した。
雄二が履いているボトムに手を伸ばし、前をくつろげる。
次に、テーブルの上に放っておかれていたマグカップを取り上げる。
「待て」
スプーンをカップに差し入れようとすると、雄二に両手首を力強く掴まれ、翔子は動きを止められる。
「お前は何をしようとしているんだ」
「デコレーション」
清々しいほどにきっぱりと言い切る翔子に、一瞬何故だか承知しそうになる雄二だったが、ぶんぶんと首を振る。
翔子にしたことが、自分に返って来るとは思いもよらなかったようだ。
「………チョコバナ」
「だからだめだって!」
「……好きにしていいって言ったのに」
「そこまでは言ってない」
頑なに拒否する雄二だったが、
「………」
肩を落として俯き、スプーンでくるくるとチョコレートの水面をかき混ぜ、いみじくもその合間合間にちらりと見上げてくる翔子に、
「………だーっ! わかったよ、お前の好きにすればいいだろ!」
あっさりと折れてしまった。
途端に翔子はこくんと頷き、スプーンを持ち上げ、もう片方の手で雄二の中心を支えてチョコレートを垂らす。
翔子の冷たい手と、ぬるくなりかけているチョコレートの滑りに雄二は眉を寄せる。
「なあ、お前これ好きでやってんのか?」
「……あんまり。にがいししょっぱいし、くるしい」
だからチョコを使うのかというとそういう訳ではなく、それは好奇心とささやかな「仕返し」から来るものであって、今回限りの話だ。
「じゃあなんで」
すぐには答えず、翔子は雄二の腿から下りて、床に膝をつく。
翔子の頭がぶつからないように、雄二は行儀悪くテーブルに足をかけて押しやった。
「……雄二がこうされるのが好きだから…。私に」
瞳を伏せがちにしてそう言い、翔子は小さな口で、ちゅっと可愛らしい音を立ててそれに口づけた。
「恥ずかしいやつ…!」
雄二にとってそれは奇襲そのもので、しかし翔子は彼がそう口走ったところでちっとも気にかけようとしなかった。
柔い唇でそっと先端を挟み、突き出した舌で鈴口のくぼみをえぐるように舐める。
絹のようにさらりとした髪が頬にかかり、それを邪魔がって耳にかける仕草にどきりとして、雄二は彼女が辛うじて見えるぎりぎりまで目を細めた。
熱い息と舌で溶けだし、奥深く飲み込んで行くに連れて剥がれていくチョコレートが翔子の唇をブラウンに彩る。
飾り気のないリップで塗られ、桃色をしていた唇が汚れていく様に、雄二は目を離せなくなる。
溢れてくる唾液でそのチョコの口紅も、雫が垂れるように唇から顎へと滴っていった。
最初は甘かったのが、デコレーションも取れてだんだんと苦味が増して、翔子は思わず声を漏らした。
ぎゅうと固く目をつぶって、両手で揉みほぐしながらますますそれを深く咥えこむ。
舌をぴんと尖らせ、裏筋に突きつけて、奥から手前へと溝を掘るように強くなぞり上げる。
「翔子、口外せ」
荒くなる息を極力抑え、雄二は翔子の頭に手を置いた。
しかし彼女は小さく頭を左右に振って、より一層深く、温かな口内の壁でそれを包み込んだ。
耐えられそうにない。雄二は慌てて、翔子の頭に添えた手をむこうへ押しやって彼女から離れようとする。
しかし、それは却って柔らかく湿った粘膜に己を押し付け、更には強くこすりつけることになる。
押し退けられ、咄嗟に口を開いて雄二を離した翔子の顔面を縦断して、白いどろどろが飛び散った。
何が起こったか瞬時に理解できず、自分の頬や鼻先に指で触れる翔子はもちろんとして、そんな彼女を見下ろす雄二までもがきょとんとする。数秒が過ぎてからやっと、
「悪い!」
手を伸ばして、食器棚のガラス戸の前に立てられているキッチンペーパーを乱暴に巻き取り、千切って、雄二は翔子の顔に押し当てる。
ごしごしと乱暴に拭きとられるのを、翔子は顎を上向きにして雄二が綺麗にしやすいようにして、されるがままになって待っていた。
一通り翔子の顔に付着したものを拭った雄二は、それをくしゃくしゃに丸めて、ゴミ箱に放る。
続いて床に太股の内側をべったりとくっつける体勢で座り込んでいるままの翔子の脇に手を差し込み、引きずり上げようとする。
のだが、翔子は床に膝をついてからは雄二の助けを借りることなく、自分で椅子に座る彼の膝に跨り―――その肩に手を置き、更に伸び上って口づけた。
甘えてくる翔子に雄二はなんの抵抗もせずに応じて、けれども舌が絡み合った瞬間にそれを悔やんだ。
もつれ合わせた舌は、どろりとした白い液体を共有する。
翔子の細い肩を両手で掴んで、ほんの少し力を込めて自分から離す。
唇が離される直前、翔子は舌の上に残っていたわずかな残骸を、持ち主に返すように雄二の口内になすりつけた。
「うげ」
そこに塗られた苦味に顔をしかめる。
顔にかかってしまった時翔子は小さく、それでも確かに口を開けていたから、そこにも侵入してしまっていたらしい。
まさか自分が出したものを口移しで飲まされるとは思っていなかった雄二は翔子を睨むが、彼女はくすくす控えめに笑うだけだ。
まるでいたずらが成功した子どものようで、これでは口でとやかく文句をつけるのが馬鹿らしくなってくる。
唇を歪めていた雄二は、不機嫌な顔のままに翔子をひょいと抱き上げて、テーブルの上に座らせた。
翔子の体を挟むように両手をテーブルにつき、雄二がぐっと身を倒すと、彼女もそれに合わせて背中をつけざるを得ない。
テーブルに上半身だけを預けた翔子の、垂れた足に雄二は手を這わせる。
「……反撃?」
冷えた指先に触れられ、爪先をぴくりとさせて、寝転んだまま翔子は雄二と目を合わせる。
「ま、そんなとこだ」
膝から太股を辿り、雄二は翔子のスカートにしわをつくった。
下着を取り払い、片膝を持ち上げて、翔子の爪先はテーブルの縁にかけられる。
マグカップに浸し、指先にたっぷりとチョコレートを絡めて、雄二は翔子の切れ込みに触れる。
「っ…」
肌が泡立つ感覚に、翔子は声にもならないような短い息を漏らす。
形を確かめるように周りをなぞるだけだった指が、チョコとはまた違った透明でとろみのある蜜を捕らえた。
「……あっ」
割って入って来る雄二の指先に、翔子の肩がびくんと跳ねる。
チョコレートをすりつけるように内側を丹念に掻き回され、その度に翔子の体に熱が溜まる。
触れられているところから背筋を通って、頭部へと駆け抜ける喜悦に浸り、翔子はだんだんと溺れていく。
「………い、ぅうん…」
ぞくぞくする背中を押さえつけたくて、しかし反対に背筋を突っぱねて体を反らせてしまう。 テーブルの縁に引っかけていた足を伸ばし、無意識の内に上へ上へと逃げようとする翔子の腕を、塞がっていない方の手で押さえつける。
指を抜いて、雄二は両手で翔子の腰を捕らえた。
「…いいか?」
唾を飲み込んで、上下に動く喉仏に、翔子は自分だけでなく雄二も高ぶっていることを知る。
額に零れ落ちた赤い髪を掻き上げるその仕草に、翔子は余計に羞恥に煽られる。
「……ど、どうぞ」
「なんだそれ」
顔を真っ赤に染め上げて、そのくせ急に畏まった言い方をする翔子に、雄二は思わず噴き出しそうになる。
途端にむすっとした表情で睨まれるが、色づいた頬のままでは全く効果がない。
くつくつ笑いをなんとか抑えて、雄二は翔子のほっそりした腰を掴んで、テーブルからずり下ろす。
不安定な体勢を支えようと、翔子は雄二の腕に絡めるように手を伸ばした。
差し込まれる熱をはらんだ直球な欲に、翔子ははくはくと浅い息を繰り返す。
「……ゆうじ…あ、…」
雄二の額に滲む汗が目について、それを沸き立たされるように翔子は彼を緩く締めつける。
「…しょーこ」
彼女に呼応するように、乱れる息継ぎの合間、熱を吐き出すように雄二は呟いた。
幸福が快楽とごちゃまぜになって、薄く貼られていた膜が一息にふくらみ、翔子の瞳から溢れだす。
しあわせだ。翔子はうっとりとまぶたを伏せた。


チョコレートよりも甘ったるい匂いが凝縮されたキッチンは、まるで空気に色がついたようだった。
「今日はろくに飯食えねえな、ここじゃ」
散らかし放題にしていたテーブルを片付けながら、雄二はぼやく。
キッチンに不都合があって使えないというわけではなく、こんなことの後では、母親とこの食卓についた際に平気な顔を維持できないという意味だ。いっそのことお友達と外食でもしていてくれればいいのだが、そういった連絡は入っていない。
掃除する雄二の横で、くちゃくちゃになったエプロンだけをまとった姿で、翔子は冷蔵庫を開ける。
「翔子、まず服着ろ。風邪引くぞ」
そういう雄二もろくな格好ではないのだが。
扉を薄く開けて、隙間から覗くように中を見て、翔子はぱあっと顔を輝かせた。
「できたのか?」
床に転がったマグカップを拾い、そこから零れたチョコレートを雑巾で拭き取っていた雄二が背後から覗きこもうとするが、素早く翔子は冷蔵庫を閉めた。
カララン……と、扉を閉めた拍子に、瓶同士がぶつかる可愛らしい音がする。
「……まだひみつ。楽しみにしていて」
翔子は控えめに、けれどくすくす楽しそうに笑った。

「……私のバカ」
しかし一転、翔子は唇をへの字に曲げ、しょんぼりと俯いた。
身なりを整えて、キッチンも片付け終わったふたりはそれぞれ、翔子はシンクに立って最後の仕上げを、雄二は椅子に座って彼女の背中をぼんやり眺めていた。
「なにが」
言葉少な雄二が尋ねると、翔子は、
「……ラッピングの材料を家に忘れてきた」
と呟いた。
椅子を軋ませて立ちあがり、雄二は翔子の隣に並ぶ。
「もうできてるじゃないか」
恥ずかしいくらいに直球なハートの形をした真っ赤な箱は、翔子の前にきちんと蓋をされて鎮座している。
「……金と銀のモールを巻くつもりだったのに…これじゃカードが挿せない」
ふたつに畳まれた小さなメッセージカードを手に、翔子は困りきる。
今から取りに帰るか、急いでどこかで買ってくるか。
考えを巡らせていると、それを遮るように耳元で絹が擦れる音がした。
引っ張られるようにしてそちらに顔を向けた翔子に、雄二はたった今抜き取った彼女のサイドに結ばれていた白いリボンを差し出す。
「これでいいだろ」


緑から青にかけてのグラデーションで空の縁が彩られていた。
いつもはふたつ揃っているリボンを片方だけ揺らして、翔子は薄暗い空に瞬きだした星を眺めるふりをしてゆっくりと歩く。
それに合わせて歩いている雄二の足の運びも、普段に比べて随分と遅い。
会話も飛び飛びで、声や言葉を伴わない白い息がほとんどだった。
「……ここでいい」
翔子の自宅のすぐそこまで来たところの曲がり角で、彼女は立ち止まる。
手に提げていた鞄の口を開いて、中から慎重な手つきで箱を取り出す。
「雄二」
白いリボンは、今は漆黒の髪ではなく、赤いハートのケースを慎ましく飾っている。
ハートのとんがりが雄二の方を向くように、翔子は両手でそれを渡す。
結ばれたリボンと箱の間に挟まれた小さなカードには、どんな言葉が書かれているのだろう。
「……私の気持ち。受け取ってください」
寒さのせいだけでなく頬を染める翔子に、雄二はポケットに突っ込んでいた手を片方だけ抜いて、それをぞんざいに受け取った。
「………アリガトウゴザイマス」
彼は目を合わせてはくれなかったけれど、翔子はふうわりと微笑んだ。