最終決戦を勝利で収め、互いの故郷に帰ったガンダムフォースの面々が再び集まったその日の夜。 新たに与えられた任務をこなしてブランベースに帰って来た爆熱丸は、用意された部屋に入るなり「うわーい!」なんて歓喜の声を上げてベッドに飛び乗った。
ネオトピアに飛ばされる前は戦乱の国・天宮で生きていた爆熱丸が、初めてみるものだらけの未来都市で特に気に入ったものの一つが、このふわふわのベッドだった。
タイル製の床にはなかなか慣れず、やはりそこだけは畳の方が落ち着くのだが、寝床だけは固い布団よりもこちらの文化の寝具の方が心地良い。
武者頑駄無であるところの爆熱丸が使用してもびくともしないネオトピア製のベッドで四肢を思い切り伸ばす。
と、こつこつと扉がノックされた。
「どーぞー」
くたりとしたまま爆熱丸は答える。客人を迎える態度ではないと頭では解っているのだが、ふかふかのベッドに沈みこむ体はなかなかどうして言うことを聞いてくれない。
扉を開いたゼロは、うつ伏せの爆熱丸を見つけてあからさまにむっとした。
「それが客人を迎える態度か。全く美しくない」
気が引けていたことを丸々、さらにいつもの台詞までつけられて指摘された爆熱丸は、顔だけ扉に向けた。
床を蹴ったゼロがふよよよよよと軽薄な音を立てて、ベッドの所まで飛んでくる。
「この私を見たまえ。お前のような美しくない者に対しても礼儀をわきまえわざわざノックまでしてやっているというのに」
高みから見下ろし、胸に手を当てて偉そうに喋るゼロに爆熱丸は飛び起きた。
「誰が美しくなくて誰が美しいだと! 大体大した用もなく訪ねてくる者こそ美しくないだろう!」
「用がないわけではない。……大したことではないが」
それまで爆熱丸を見下ろしていたゼロは、床に降り立つためにわざわざ足元に視線を落とし、高度を下げながら言った。
「お前と話がしたいのだ」
いつもはそんな用心深い動作は取らないのだが。


「俺が元気丸達と共にいたのはほんの少しの間だから、語れることはあまりないのだが……」
プライドばかり高いくせして存外寂しがり屋なゼロは、爆熱丸の淹れた茶を啜る度に微かな苦味に顔を顰めたり、たまにくだらない揚げ足を取ったりしながらも彼の話を聞いていた。
何かとぶつかり合いがちな騎馬王衆とザッパーザク達をまとめるために、元気丸はそのいがみ合いを更に三つ巴にする勢いで割って入っていく。と実例を上げて話す爆熱丸に、元気丸らしいと思いながらゼロは湯呑に口をつけ、飲み慣れない味にやっぱり瞳をばってんにした。
「それで、そっちはどうなっているんだ? お主の国は」
一通り爆熱丸が話し終えると、ゼロはうきうきと話しだす。
「何もかも良い方向に進んでいっている。国民達は総出で町の復興に勤しんでいるし、遅れた分の外交は国王様や側近、大臣達が巻き返しを図っている。気持ちの良い、美しい忙しさを持ってして人々は新しい生活を始めているのだ」
そう何日と離れていたのではないのだが、爆熱丸はゼロのこの語り部を久しく感じた。
ガンダムフォースに入隊してからの日々をほとんど一緒に過ごしたからか、それともこいつのキャラクターがなかなか濃いから、ほんの少し会わないだけで何年も会っていないような気にさせるのか……恐らく後者だ、絶対そうだ。
「私のことなら案ずるな、お前ごときに心配されることなどひとつもない。美しい姫君の隣には常に美しい私がついているし、救世主ゼロとしてリリ姫と共に行動することを国中が望んでいる。もちろん騎士である私としても誇りを持ち、救世主の義務としてその任務にあたっているからな!」
聞きながら、爆熱丸はこの良く喋る騎士を連れて現れた少女を描く。再結成されたガンダムフォースには件のリリ姫もいて、今は用意された個室で眠るなり寛ぐなりしているはずだ。
「お主はそればっかりだ。美しい美しいと、まるで言葉を覚えたての九官鳥のようだな」
「なあにを!」
だん! とゼロはサイドテーブルを拳で叩く。その上に置かれていた湯呑と急須が浮いた。
「ところで騎馬王丸の様子はどうだ。何もへまをしてないといいのだが」
自分と同じでずっと天宮にいた武者のことだから、留学先のラクロア文化に馴染めず困っている、困らせている可能性は大いにある。
そう心配したのだが、ゼロは彼に手を焼いているようでもなく、さっきと同じトーンで話す。
「騎馬王丸はあれでいて礼儀はなっているようだからな。リリ姫に失礼な態度を取ることもない。
形としては騎馬王丸がラクロアに留学しているはずなのだが、リリ姫は天宮での話を彼に聞くのを気に入っておられるようなのだ。
もちろん我らが姫は教わってばかりではなく、ラクロアの文化を教えるのも怠っていないぞ。
まあ、私としては姫が彼にチェスの手ほどきをなさるよりも先に、この美しい翼の騎士自らテーブルマナーを叩きこみたいものなのだがな……あと宴会芸」
ひとたび城を出ればすれ違う国民全員が全員ゼロを讃え、特に女性からは黄色い声があがって困る。騎馬王丸に万年筆を持たせたら一文字書き終わる前にペン先が割れた。などなど、ラクロアでの出来事をつらつらと話すゼロは、
「相変わらず騎士ガンダムは私しかいないが、しばらくすれば新たな騎士も生まれるだろう」
そうやって締めくくった。
「良かったな」
ゼロの故郷であるラクロアの石化がまだ解けていない頃、気障で自信家で口を開けば美しい美しくないの彼は、それでも時折薄暗い過去と重い使命を負っているのを見ている者に感じさせる危うい面があった。
今のゼロは、言ってみれば大き過ぎる肩の荷が下りたばっかりで、随分とすっきりしているのが傍から見ても良く解った。
それを思うと心から良かったと口にできる。
「ああ。お前たちのお陰だ」「感謝する」
恐ろしく素直にそう言うので、なんだか面食らいながらも爆熱丸は頷く。
ずっと喋っていて喉が渇いたのか、ゼロは湯呑の中のお茶をぐいと飲み干した。
「にがぁあ……」
「なあ。随分と今更になってしまう上に慰めにすらならんと思うが、一つだけ言わせてくれんか」
「何をだ」
何時になく真剣な表情で言う爆熱丸に、ゼロは何事かと訝しむ。
しかし次の瞬間には、彼は手の中の湯呑を取り落としそうになってしまうのだった。
「二年間、独りで良く頑張ったな。辛かっただろう」
ゼロが預言の救世主として、ダークアクシズに乗っ取られ全てが石に姿を変えてゆくラクロアから異次元へ送られたのが二年半ほど前。
ガンダムフォースに入隊するまで、辿り着いた見知らぬ世界・ネオトピアで石化解除の鍵を探すこと二年間、ゼロはずっと一人きりだったのだ。
それを想うと慰めをかけたくなってしまう、というかかけてしまったのだが、いざ口にすると全く独りよがりで、まるでちっぽけな自己満足を満たすためだけに吐いた台詞のようだった。爆熱丸は少し悔いる。果たしてこれはどうしても言わねばならぬことだったのか。まったくちっとも美しくない。……ってあれ?
「なん、なんてことを言うんだ貴様は……!!」
その声に顔を上げると、湯呑を握るゼロの手がぶるぶると震えるのが目に入った。しかし深く俯いていて肝心の表情は見えない。
己の心を見透かしたゼロに叱咤されるやもしれんと一瞬だけ身構えた爆熱丸だったが、怒声は一向に飛んで来ない。
声をかけようとする、が、それよりも先にゼロの湯呑に波紋が広がった。一滴、雫が落ちたのだ。
驚いて、爆熱丸は咄嗟に天井を見上げる。空に浮くブランベースのことだから、きっと普通の家よりも雨漏りしやすいのだろう、と目の前の光景から逃げたいがために筋が通っているのかいないのかの理屈を一瞬で立てたのだ。
しかしやはりこれは、間違いなく……。
ぱたりと、再び落ちた雫に一息に青ざめて、爆熱丸はゼロの前から飛び退いた。
のけ反って、腰かけていたベッドの上をごろごろ転がって反対側に落ちる。床に頭をぶつけ、がつんと鈍い音がした。
「すすすすすまん!! 泣かせるつもりではなかったのだ信じてくれ!」
床に這いつくばって、額を擦りつけて頭を抱える。土下座と言うより、雷が近くに落ちた時やおばけを見た時の子どもの反応の意味合いが強い。
恐ろしくプライドの高い友人が隠し持つ、触れるは愚か、匂わせてもならない地雷を思いきり踏んづけてしまった。
だらだらと冷や汗が流れる。いらない慰めだとは解っていたが、それに対するゼロの反応は爆熱丸の予想とは方向性が違っていた。
「侮るな!」と一喝されることは覚悟しても、まさか泣かせてしまうなんてこれっぽちも。
が、しかしこのままではどうにもならない、そろりと爆熱丸は這い上がる。
はいはいの要領でベッドの前に置かれた椅子に座るゼロの前まで進み、湯呑をぎちぎちに握りしめている手から、割れない内にそれを取り上げた。
泣きじゃくる子どもにするべきことと言えば(爆熱丸には今のゼロは自分よりも弱い生き物に見えた)……恐る恐る手を伸ばす。
頭を撫でようにも装飾が邪魔する、ぽんぽんとあやすように肩を叩く。
「何のつもりだ」「ひどい屈辱」「子ども扱いはやめろ」「馬鹿にして」「気安くさわるな」
しゃくりあげながらゼロはぶつぶつ言うが、そのせいで余計に声がぶれていっている。
普段体を包む優しい空気は、泣いている時だけ嘲るように喉に入り込み、ますます無様な声にしてしまう。
すぐにゼロは閉口してしまった。
「お、落ち着いたか…?」
ゼロの震えがだんだんと治まっていくのを見て、爆熱丸は手を退ける。
ゆうるりと頷いて、しかしゼロはすぐにぶんぶんと兜を左右に振った。
どっちだと思ったが、混乱しているが故なのかもしれない。
様子を見守っていると――握られた拳が、すでに治まっていた小さな震えを新たに刻んでいく。
先程とは少し毛先の違う腕と拳の揺れ、ゼロがまともに泣いているところをまともに見たことのなかった爆熱丸だが、その分見慣れたこちらのパターンは良く解る。
が。
顔を上げ、ぼろぼろと大粒の涙を流しながら、ゼロは声を振り絞った。
「よっぐ、よくも、よくもこの私を泣かせたなああ……!」
「へ」
今回ばかりはゼロが何を言っても、むきになって言い返さずに大人しく怒鳴られてやろうと思っていた爆熱丸は、椅子から立ち上がった彼の瞳に浮くものをぽかんと見上げた。
涙は完全には引いていなかったようだ。いや、それならそれで泣き止むまで付き合うまでなのだが、同時に怒りを露わにしている。
もちろん泣きながら怒るのだって立派な感情表現で、それはそこまで珍しくない。ゼロがやるとなるとそりゃあ珍しいのだが、まああり得ない話ではない。
「え? え?」
それではなく、大袈裟な魔方陣を呼び出す呪文を唱えるでもなく、爆熱丸の頭を花瓶にしてしまうあの小技を使うために指を鳴らすわけでもなく、伸ばされたゼロの手が己の肩を捕らえたのに彼は呆気にとられているのだ。
さっき子どものように撫でたことへの意趣返しか、と頭をよぎるが、違う。
とん、と後ろに押し出される。その手には全く力が込められていない、見る限り魔法というわけでもなさそうなのに、隙だらけの爆熱丸はあっさりとベッドに沈みこんだ。
天井のパネルだけが視界を埋めるなか、ゼロがひょこと顔を出す。
そのまま布団に乗り上げ、爆熱丸の膝に手をつく。みしりとベッドが軋んだ。
「おい、ゼロ。ゼロ?」
そのままつねられるか、最悪足をやられるかもと体を固くした爆熱丸は、しかしぺたぺたと何度も手を離してはまた置くの繰り返しに目を見開いた。
「おおぉ!? なんだ、くすぐりっこ!?」
童心に帰ろうとしておるのか!? このタイミングで!?
全く読めないゼロに驚いて、跳ね起きようと布団に手をつくのと、「ぐしゅ」と彼が鼻をぐずらせるのが被る。
それを聞いた爆熱丸は、ぴきんと固まってしまい、途端に口を噤んだ。
半ばやぶれかぶれになって、起こしかけていた体を再び布団に沈める。
ええいままよ、くすぐるなりなんなりすればいい。……の心境だったのだが、やがてゼロのついては離すの単調な動きが、揃えた指先の腹で爆熱丸の膝を撫で始めた。
指が膝から下へと肌をなぞり、適当なところで離され、また膝小僧へと指を這わす。
ぐすぐす言いながら反復するその動きはぎこちなく、異国のおもちゃを手に入れたものの遊び方が解らずに模索している子どもの様で、乱暴なんだか優しく扱っているつもりなのか今一つ判断できない。
が、どうやら自分はただくすぐられているのではないと理解し、彼の意図のはじっこを本能的に掴んだ爆熱丸は、
「あの〜……ゼロさん? もし俺の勘違いだったら本当にすまないんだが、これはひょっとして……」
むずむずする感覚に嫌な汗をかきながら、天井に視線を注いだままゼロに声をかける。
「俺をだ……こ、うとしているなんてことは…」
「そーだっ」
「ええええええ!? なぁあああんでぇえええええ!?」
オーバーリアクションは爆熱丸にとっては最早癖のようなものだが、今回ばかりはもっともな反応だ。
ついに跳ね起き、勢いづいた爆熱丸だが、目の前のゼロの瞳が未だ潤んだままなのを見て、冷水をぶちまけられたように一瞬で勢いは消え失せ、ぐうっと完璧にひるんだ。
「さんざん、ひとの泣き顔を、っぐ…見ておいて、ひゅ……」
一旦泣き止めてもすぐに喋ろうとするとマジ泣きに強制移行されるの法則。
落ち着きかけていたゼロの声がまたもやぶれて、眼球には涙の厚い膜が張っていく。
「…て、お、お前のみっ…な…い泣き顔でも拝ま…っきゃ、治まら、えう」
ぽかん。瞬時にその意味を測り損ねた爆熱丸は唖然としたのち、「えぇえ!?」と目を剥いた。
たとえ情けからの言葉であろうとも(というより、だからこそ余計に)泣かせられたのが悔しいから泣かせてやる。
端的で解り易いっちゃあ解り易いんだが、そのために取る手段がおかしい。
それに、本当に本当に、泣かせるつもりなんてこれっぽっちもなかったのにぃ!
冗談じゃない! あくあくと目元を引きつらせる爆熱丸だったが、ゼロがこれ以上涙を零すまいと必死に、真っ赤に染まった目の縁をごしごしと手の甲でこするのを見て、ますます不利な心境に追いやられていった。
「で、ではこうするのはどうだ! え、えーと……」
目を白黒させながら、爆熱丸は一生懸命頭を絞る。要は彼に、己を泣かせてやればいいわけだから……
「俺の泣き顔が見たければそんな手段を取らずともだな……えええーっと、むむ、あー………お? おおっ! あるではないか秘策が!」
拳で手の平をぽんと叩き、爆熱丸は首を傾げるゼロにずいと近付く。
「自慢じゃないが俺は簡単に泣くぞ、すぐ泣くぞ! ラクロアに伝わる怪談の一つでもしてみたらいややっぱりいいぃっ!!」
そんで部屋中を縦横無尽にかさこそし回る黒い悪魔を見つけた時のように、壁に背中を打ち付ける勢いで飛び退く。
自分の言葉すら最後まで結べないほどの恐がりっぷり、久々に見た、とゼロは手の甲だけでは拭えなかった雫を瞬いて弾きながら、ぼんやりそう思った。
敷布団と枕の隙間に頭を突っ込み、がたがた震える爆熱丸が被る枕にゼロはそっと手をかけ、取り上げる。
枕を押さえていた手は今度は頭を抱える。彼の頭の近くに付いた手に寄せるように体を近づけ、ベッドに膝を沈めた。
顔を囲んだ腕から、恐怖で今にも涙を押し出しそうになっている目が覗く。
「な、泣くまで殴るか……?」
それは、まさか提案なのか、それとも隠れ蓑を剥いだゼロの行動を勘違いしているのか、どっちにしろ爆熱丸からそんな風な言葉が出てくるのは寂しい、とっても。
「そうじゃない、そんなことはしない」
ゼロはゆうるりと左右に首を振る。真直ぐに注がれる彼の視線は、爆熱丸に、まるで眼球の内側に潜りこもうとしているようだとすら思わせた。
そのまま、微かな声すら躊躇われる無音の時を刻んだ後、爆熱丸は半ば自棄気味に、しかし残りの半分は本人は自覚していないようだがしっかりと絆されて、がちがちに固まった体の力を抜く。
「それでお主の気が済むのなら、なんでもすればいい」
………判で押したようなロボットだった頃のキャプテンなら「泣き落とし」と辞書機能で弾きだしていたに違いない。
けれども当人達にとってはそれはただの切っ掛けで、ついに一歩踏み出した瞬間だった。


「………爆熱丸、一体私はどうしたらいいのだ」
布団の上で正座して、膝を突き合わせる二体のガンダム。掛け布団に描かれた幾何学模様のユニットを数えるのにお互い忙しく、ゼロがそう切り出したのは、ふたりが黙ってから優に二十分は過ぎた頃だった。
「ど、どうって?」
いきなり声をかけられて驚いた拍子に、爆熱丸はユニットをどこまで数えていたか見失う。ついでに緊張の余りいくつまで数えていたかも頭からすっ飛んでいった。
「いやだから…どうしたらいいのか聞いているんだ」
「ど……どうって…」
ここまで来て言葉を濁すのは、解らない振りをしているか、単に言いにくいだけだ。しかし普段ならゼロは彼の下手な演技も、言い難いことを抱えている際の様子もお見通しなのだが、やっぱりこっちも極度の緊張のせいで、
「だ、だから! ど、ど……どうしたらお前をみっともなく泣き喚かせるように抱けるんだぁあっ!!」
顔を真っ赤にして、ほとんど怒鳴るような勢いで思いの丈をぶちまけた。
ぎょっと目を剥いて、爆熱丸はようやく頭を上げてゼロを見る。見る。見て、それから、
「しっ……」
さっきまでOFFだったスイッチがONに切り替わったかのように、どかん! と一瞬で茹でダコのように濃く色付いた。
「知るかぁーーー!! 自分で考えろ!!」
あまりにあんまりな言い草に、爆熱丸はサイドテーブルに置かれている目覚まし時計を引っ掴み、ゼロが慌ててクッションを顔の前に持って行ったのを確認してから、彼目がけてぶん投げた。
クッションを介して布団の上に落ちた時計を拾い上げ、ゼロは元の場所に戻すよう爆熱丸に差し出す。それを受け取って、爆熱丸はサイドテーブルに置き直した。当然だが、こんな状況に置いても、ごく普通の動作だけはスムーズだ。
「しかし私には大雑把な知識しかない。それも人間の男女の場合の知識だ。
ラクロアの騎士ガンダムは精霊の泉が育む卵から生まれる。私たちには必要のないことだから、騎士ガンダムの教育カリキュラムでは保健体育は重視されていないのだ」
時計盤だけじっと見つめ、ゼロは最後にそろっと爆熱丸を見やる。
「あれ。おい」
爆熱丸は正座のまま、しかし額を布団に突っ伏していた。ぴくりとも動かない彼のガンダム肌にだらだらと汗が流れる。
「お、教えなくてはいけないのか!? この俺が!? こいつに!?」
ぶつぶつ呟く爆熱丸だったが、小声のためゼロには届かない。彼の懸念そっちのけで、ゼロはふと、自分達がある重要な点をすっ飛ばしていたことに気づいた。
「あ、キスするの忘れた」
爆熱丸もひょいと顔を埋めていた布団から持ち上げ、
「え? ああー……」
そう納得しかけて、しかしすぐさま跳ね起きた。
「って! 違う違うちがーう!!!」
じたばた両手を振り回し、びっ! と風を切る音が立つくらいに大きな動作で人差し指をゼロに突きつける。
「お、お前は、お前はっ、俺のみっともなくも情けない泣き顔が見たいだけだろう! 何故そんな、何故そんなことまでせねばならんのだ!?」
「はぇっ?」
ゼロはきょとんとその指先を見つめ、ぷんすか怒っている(ように見える)爆熱丸に視線を移動させて、そしてはっとして声を荒げた。
「あ、ああ! そうだとも! 私は、お前の、お・ま・え・の! 泣き顔を拝みたいだけだ! 決してそんな、お前に、お前を、お前がだなあ……!!」
「いやだがしかし! 貴様がどうしてもと言うのなら!? 付き合ってやらんでもないぞ!? かもしれないぞ! …何がだ!!」
「違うな! 私がお前に付き合ってやるのだ! いいかそこだけは履き違えるな! 私は別にそんな、そういう……いやこういうことが言いたいんじゃなくて! ………何がだーーー!!!」
キャプテンがここにいれば、「果たしてこのやりとりに意味はあるのだろうか」と静かに、しかし確実に本質を突くような発言をしてくれたところだろう。
「そ、そう、それが作法というものだ。私は気高き騎士だからな、うん、たとえお前が相手でもこうして礼儀をわきまえようと! だからだ、解ったか!」
偉そうなゼロの口調はいつものことなのだし、今回ばかりは聞き流しておけばいいものを、やはりこちらもいつも通りに爆熱丸が噛みつく。
「そう思うんならもっと手順を踏まんか! ブースター噴射させて階段飛ばしするような真似はやめろ!」
「手順、手順……?」
ゼロが首を傾げる。彼をとんでもない方向に誘導してしまったと爆熱丸が気付いた頃には、ゼロは布団の上に置いた手をしゃくとり虫のように動かしてじりじりと迫ってきていた。
「爆熱丸」
ぎゅうっと手を握り、ゼロは爆熱丸と額同士がぶつかる一歩手前をまでに身を寄せた。
きゅううううううううぅ、と、まるで水が沸騰したのを知らせるやかんの鳴り物のような音が爆熱丸のどこかから立つ。
ゼロが一つ瞬いたのを境に、次はぶしゅううううう!! と白い蒸気が爆熱丸の額当てから上がった。
「す」
「いぃいいいいい!! いい! やっぱいい!! 言わなくていいったらぁああああ!!!」
絶叫した爆熱丸は、たった二文字で終わってしまう短い言葉を結ばせないため、咄嗟に眼前のゼロに頭突きをかました。とにかく混乱していたのだ、いやほんと、本当にただそれだけだったのだが、頑丈に出来ているふたりは、きゅうっと目を回して仲良く気絶した。

「石頭」
「だってしょうがないだろう……びっくりしたんだから、仕方ないだろう……」
べそべそと泣きごとを言いながら、爆熱丸はぶつけた額を両手で押さえて布団に転がる。
ゼロはがんがんと痛む頭を柔らかいクッションに預け、不貞寝のように布団に突っ伏していた。
「もう君相手に正しい手順は踏まないからな。ロケットブースター噴かして踊り場から踊り場まで飛ばしてやる」
「解ってるのか」
そもそも正しい手順を、と頭に付けるべき台詞は直接言わなかったが、ゼロは爆熱丸の言いたいことをしっかりと読みとった。
「………。お前が私にレクチャーすればいい」
「あ、あのなあ、武者頑駄無は確かに子を産むが、それだってやはり男女の場合のみであって、男同士の段取りなんて俺が知る筈がないだろう……」
ぼそぼそと小さく喋る爆熱丸を視界の隅に捕らえて、
「ふむ」
ひょいと宙に目を向けるゼロ。
知らないと言っていたが、それは考えるきっかけが今までなかった、あえて考えようとしてこなかっただけで、彼は正に今、恐らくは彼が最低限知っている人間の行為に自分たちを当て嵌めている……
「……おおよその見当はつく!」
「つくけど! つくけどぉ!」
ちょっとした新しい発見をした子どものようにぱあっと顔を明るくするゼロ、とは対照的に、同じくおおよその見当がついた爆熱丸は握り拳でばしばしとベッドを叩く。
「止めないか。君の馬鹿力で壊れたらどうする」
起き上がったゼロが、先ほどまで自分が顔を埋めていたクッションを爆熱丸に投げる。
叩くならこれにしておけということらしい。爆熱丸は大人しくそれを抱え、今度はぼすぼすと軽い音を立てて綿に拳を食い込ませる。
「それならしがみ付くこともできるだろう」
「………しがみつく…」
ベッドの上をはいはいで移動して距離を詰めたゼロに、爆熱丸は恐る恐る顔を上げる。
しかし彼は爆熱丸を不安にさせるような表情……例えば妙に明るい笑顔を浮かべているわけでも、いかにも悪そうなせせら笑いを刻んでいるわけでもない。まるっきり真摯なゼロに、爆熱丸はすっかり毒気を抜かれた。それはもうすっぱりと。

まな板の鯉ってこういうことか。ゼロは眼下に見下ろす爆熱丸に対してそう感想を持った。
爆熱丸はゼロに見られない様にクッションを顔に押し付けて、更にそれをがっちりと抱き抱え、小刻みにぷるぷる震えている。
そんな彼に手を伸ばして、やっぱり引っ込め、ゼロは中指と親指を擦り合わせた。かつ、と小さな音が鳴る。
指先を見つめ、それから爆熱丸に視線をスライドさせて、はああとゼロは息を吐いた。
「こういうことって、やる方もそれなりに怖いものなのだな」
「おおおおれはもっと怖いんだぞ!!」
爆熱丸がクッションを押し下げて、ひょこっと顔を出す。ゼロは頷いた。
「そうだとも。さぞ恐ろしい思いをしているのだろう、気高い武人が、よりによってこんな……」
「だあああああ!!! 御託はいいからさっさと……! ちが、違うぞ、そういう意味じゃないぞ!!」 「? うん」
ゼロは単純に心配をしているだけなのだが、爆熱丸にとってはそれが却って辱めになってしまっている。
言い捨てて、爆熱丸は再び顔を隠した。
「じゃあ……えーと、さ、さわるぞ? いいな?」
「あああ頼むから何も言わないでぇ聞かないでぇえええ!!」
叫びは柔い布と綿に吸い込まれて、くぐもった声が響く。
事実上はまだ何もその身に起きてはいないのだが、しかし羞恥に耐えきれずに爆熱丸はばたばたと足で空を掻いた。
ゼロは蹴られない内にその足を押さえて、そーっと腿に手を伸ばした。
ぺたりと手を置くと、それだけで大袈裟に足が跳ねあがった。
次に内股へと、ぎこちない動きで指を滑らせる。
二人分の重みにベッドが軋む音、布が擦れる音、サイドテーブルの秒針が進む無機質な音、そこに混じる己の徐々に浅くなっていく呼吸音、そして触れられる度にこつこつ響く小さな音。
彼にとって最後のそれが一番のネックで、当然だがガンダム同士でなければ触れ合ったところでこんな音はしない。
普段はがしゃんがちゃん喧しい音を立てて喧嘩している分、微かだがはっきりと耳に入り込んでくるこの音は、今自分達が行っていることが日常からかけ離れていることをまざまざと突きつけられているように感じたのだ。
かつん、こつん、ことんと穏やかな音色で聴覚が溢れ返り、この時点で既にひーひー言っている爆熱丸はついに切れた。ぶちっと。
「やっぱなんか喋ってええええええ!!!」
「わぁああああ!!」
突然の声に、その音量も相まってゼロは弾かれるように手を退かした。
「おだ、おどっ、驚かせるな!!」
「でも! だって! そんなこと言ったってぇええ!! 音が、音、おと、おと!!!」
「ああ解った解ったから落ち着け!」
ぶわわと涙を眼球いっぱいに膨らませ零れ落ちそうになっている爆熱丸の手をゼロは引っ掴む。
あやすように何回か強く握ったり緩めたりを繰り返してやると、へなへなと力が抜けていった。
「何を喋ったらいいんだ」
努めて優しく問いかける。握っていない方の手は抜かりなく探索を続けているが。
その止まらない手に冷や汗をかきながら、爆熱丸は上手く回らない頭を必死に動かす。
「えーっと……うーん……待て、今考え」
つくん。
「ぎっ……!!」
「あ、入っ」
「だから言うなと言ってるではないかぁあああああ―――ぁああっ!!?」
淵に触れ、尚且つ広げようとする様にぐるりとなぞられて、とんでもない異物感にぞっと血の気が引いていく。
「き、き、気持ち悪い! ゼロ気持ち悪い!!」
「それではまるで私が気持ち悪いみたいではないか!!」
「違う違う! ちが、ぁ、あぐ、は……っ!」
なんだかむきになりかけている(喧嘩尽くしだから良く解る)ゼロに、爆熱丸は慌てて訂正しようとするが、侵入を深くしたそれに言葉を遮られる。
「んん…!」
膝を僅かに曲げ、背中をずり上げる。じた…とにじるように逃げる爆熱丸を、ゼロは握りっぱなしだった手を引っ張って留めた。
ただ掴んでいた手と手を、指一歩一本を絡めるようにして繋ぎ直す。
何か喋らないといけないんだっけ、とゼロは口を開いた。
「この繋ぎ方はな、片方だけがどれだけ逃げようと躍起になっても、もう片方がそれを許さなければ決して外れず、双方が同時に力を抜かないと解けないのだ。その特性から、私の国では古来より『指ギロチン』と呼ばれていて」
「そそそそんな物騒な話はいい!!」
ここネオトピアではそれは『恋人繋ぎ』という名称が与えられているのだが……どちらもそれを知らないようだ。
ゼロ曰くの「指ギロチン」によって、眉間に深い皺を刻みながらも爆熱丸は大人しく、されるままの状態をなんとか保つ。
「ぐるじっ……うぐ…」
「少しの間我慢してくれないか」
「いや…これ無理だって! 我慢できるできないとかそんな問題じゃないって!!」
「じゃあやめよう」
「我慢する!」
空いた手で拳を握り、決意のポーズを取るように振り上げる。
その腕はぶるぶる震えていて、笑えばいいのかなんなのか、でもどっちにしろゼロにだってそんな余裕はなかった。
「うあっ――――!?」
ぐり、と指で中を抉ると、宙に突き出された爆熱丸の腕ががくんと大きく揺れた。
「あ、ひっ――ぜろ、ゼロ!!」
腕を降ろしてクッションを思いきり抱き締める。同時にゼロと繋いだ手に、一気に強く指を食い込ませた。
「ど…どうした? 痛いのか?」
「いや痛いのはずっと前からなんだが! そ、そうじゃなくて―――ぅあ、ぎゃあああ!?」
「大丈夫なのか?」
「た、たぶん! たぶんんんんん!?」
ぐるぐる目を回し、見るからに狼狽する爆熱丸にゼロまで引きずられそうになる。
彼は先程から自分の手をぎちぎちに握り締めている爆熱丸の手を見やり、その視線は腕を辿って顔を隠すクッションに注がれた。
ゼロはかたかたと小刻みに震えている爆熱丸の手を、親指が動くだけくるりと撫でる。
「……ひょっとして痛いだけというわけではない、のか?」
「え、あ、あ」
その通りなのだが、痛い辛いとは真逆の肯定的な台詞など正直に吐けるはずがない。
しかしこういう場合、ぴたりと動きを止めて言葉に詰まるというジェスチャーは、「はいそうです」と言っているようなものだ。
顔を隠していてもその本心がありありと解る彼の様子に、ゼロはまた慎重に壁を擦った。
「……う、ぐっ……ぐ……」
眼球の裏から涙が迫り上がる。目尻に溜まる雫はついに形を崩し、頬を辿ってぼたぼたと落ちていった。
「…泣いてる?」
「うるへー!!」
投げやりな声を聞いて、慎重に慎重に、ゼロは爆熱丸の体内から指を抜く。
それまでとんでもないところを制圧していたものが抜けていく感触にさえ声を漏らしそうになるのを必死で抑えつけた。
ふぐぐと歯を食いしばって耐える爆熱丸をよそに、自由になった手を伸ばし、ゼロは彼がしがみついているクッションを取り上げる。
「あっ、なに、なに」
「いや、だって……泣き顔を拝むのが目的だったわけだし…当初の」
「うわーん!? ここにきてそこ掘り返す!?」
ゼロは布団に膝をついてぐっと伸び上る。ひょいと覗き込むと、涙を膜にいっぱい貼った爆熱丸と目が合う。
見下ろされている爆熱丸はごしごしと腕で涙を拭った。二、三回瞬くと、ぼやけていたゼロがはっきりと映るようになる。
何秒かの間、爆熱丸はぼーっと見つめられるがまま見つめ返していたが、ようやくはっと覚醒した、そののち。
しゅぅうううう………
「なあ爆熱丸」
爆弾から伸びた導火線が焼かれていくような音がする。しかしもちろんそれはイメージ上のもので、ゼロには実際には聞こえない。
聞こえないものだから、
「ここから先って……?」
この一言で導火線についた火が一気に加速したのだって、当然解るはずがないのだ。
どふん!!
頭から真っ白の湯気を立ち籠めさせて、爆熱丸は目を回す。
回しながら、へろへろと全く覇気のない動作で腕を持ち上げ、哀願するようにゼロの腕に縋った。
「もっももも、もう十分だろう! な! 俺はこの何時間かで……」
ぐらぐらする頭で爆熱丸はサイドテーブルを探し、そこに置かれた時計を読む。ゼロもそちらに目をやった。
「はれっ……?」
しかし、針が指す時間は彼の体感時間とは大きく異なっていた。
「え、うそ」
「何時間も経っていない。せいぜい半時だ。………私もびっくりした」
「と、とにかく!」
ゼロの腕を掴み、押し上げるようにして一緒に起き上がる。
「俺はもう十年分の涙を流したぞ、気は済んだはずだ!
すごくみっともなかっただろ、すごーく情けなかっただろ!! だ、だからその、今日は、きょうはここまで、ここまでで、きょうは……」
一息に小さくなった最後の言葉こそ爆熱丸の伝えたいことで、それ故にうるさいまでのボリュームが無くなってしまう。
が、それは却って解り易い、解り易過ぎるサインだ。
「あ、ああ! 実にみっともなかった、それはもう、見事なまでに情けなかったぞ! だからそう、そうだ、ここまで、きょ、今日は、きょうは、きょうはここまで………」
同じく後半になるにつれて頭が垂れ下がり、どんどん勢いを失うゼロ。
顔を真っ赤にして、お互い、今度は床に貼られたタイルを数えるのに忙しくなった。

「じゃ、じゃあ私はもう部屋に帰るからな!」
「お、おう! そうだな、明日も早いからな!」
ようやっと静寂を破って、ゼロはかくかくとぎこちなく手足を動かして扉まで歩く。
出て行き様、扉を閉め切る直前に最後の言葉を交わす。
「おや、おや、おやすみ!」
「あ、ああ、また明日!!」


電灯が消え、薄暗く姿を変えた基地内の廊下を、もうなんだか居た堪らなくなって、ゼロは早足で自室を目指す。
同時刻、とてもじっとなんてしていられない爆熱丸は、まるで親の仇であるかのようにやたらめったらクッションを叩いていた。
一つの嵐が過ぎ去って、思うところは全く同じ、

((結局キスできなかった……!!))