薄暗く、固く冷えた大理石の廊下を、足裏で踏みしめ、随分と頼りない足取りでリリ姫は進む。
普段ならば、窓から差し込む陽射しを浴び、化粧細工の施された靴で、かつんかつんと小気味良い音を立てながら闊歩するのだが、今ばかりはその靴は、後ろをついてくるゼロの腕の中にあった。
窓という窓は雨戸まで締められ、夜も更けたラクロア城には、活動する者も当然おらず、生活音すらなく静まり返っている。
はつらつとは程遠く、俯きながら、高い踵のなくなった素足で、背丈の低くなった分だけ姫はドレスの裾を引きずって歩いた。
付き従う姫の装飾品を扱う騎士の手つきとは思えないほど、何もかもをいっしょくたにしておざなりにティアラと髪飾りとドレスグローブと靴を両腕に抱えたゼロを引き連れ、リリ姫が向かったのは浴室だった。
姫が肩からドレスを落としている間、ゼロは抱えていた彼女の荷物をまとめて籠に放りこみ、先にバスルームに入って、カランをひねる。
勢い良く出る湯の温度を手先で確かめて、バスタブの脇に置いてある瓶を引っくり返した。
だんだんと溜まり始めた湯に乳白液が瞬く間に広がっていく……。
乳白色の湯に浸かり、リリ姫はくたりとバスタブにもたれかかった。
まぶたを伏せる彼女の髪に湯をかけ、ゼロは床に膝をついて、石鹸の匂いを漂わせながら、泡を立てて彼女を洗い始める。
「痛いわ」
「我慢してください」
「指の腹が固いのよ」
「生まれつきです」
声量は小さく、ぼそぼそ呟いているのに会話のテンポだけは妙に良かった。
というのも、普段のゼロならば、リリ姫に我慢してなどと言うのは考えも及ばない無礼であり、なんとか処善しようと思考し、言葉を選んで慎重に答えるのだが、この場では取り繕う気にもならずに、反射的に言葉を返すからだった。それは姫も既に心得ていて、彼のぶっきらぼうな対応にも眉ひとつ動かさない。
出しっぱなしの湯はバスタブに注がれ続け、縁から絶え間なく溢れていく。
頭を洗い終えて、ゼロは立ち上がって、ようやくカランを閉める。そのマントの裾は水分をめいっぱい吸い込み、濃く色づいていた。
シャワーヘッドを手にして、ゼロがリリ姫を振り返る。
「姫、息を止めて」
濡れたせいでうねりが強くなった姫の色素の薄い髪の、その毛先からぽたぽたと雫が垂れ、静かなバスルームに小さな音を打つ。
所在なげに立つゼロのマントを引っ張り、姫は腕を伸ばして自分の胸の前の湯をちゃぷちゃぷとかき、少し身を引いた。入れということらしい。
そのままバスタブの縁を跨いで片足を浸けると、億劫な様子でリリ姫は首を傾げる。
「あなた、まさか普段からマントをつけたまま入っているのですか?」
「……まさか。たまたま忘れていただけです」
既にびしゃびしゃに濡れてしまっていて、今更もいいところだったが、ゼロはマントを外して、まるで雑巾でも扱うように両手で絞る。
疲れと心情から、ゼロの行動は非常に乱雑で、優雅で美しいとはとても言い難い振る舞いばかりだった。
押し黙ったまま揺れる湯船を見つめて、しばらくすると、静寂の中、湯船から爪先が持ち上がった。
乳白色の湯から突き出された脚と、かかとから滴り落ちる水滴をゼロがぼんやりと見ていると、膝が伸び、爪先が目前に迫ってくる。
洗えということだろうとスポンジを手に取り、姫のかかとを捕らえたが、彼女は爪先で器用にもゼロの手の中のそれを払い落す。
白いスポンジが浮かぶ湯の上で、リリ姫は表情らしい表情のない顔のまま、その爪先をゼロの口に押し付けた。
くに。
「………」
人でいう口の位置に開かれたスリットに、小さな爪が入り込む。
爪先の指をうねらせ、白い湯と共にゼロの口に擦りつけて遊ぶリリ姫に、さして困惑した様子もなくゼロは呟く。
「………舐めようにも、私には舌がありません」
「ええ、そうですね」
ゼロが喋る度に青白く光るスリットに添えられた姫の爪先は、同じく青白い色に染まる。
舐め取ることはできないが、彼女の足を伝って入り込む水は、入浴液に含まれるミルクの味と、人の肌の味がした。
毎日丹念に掃除されているとはいえ、大勢の人々が行き交う城の廊下を裸足で歩いてきたのだ。
それを押しつけられて、しかしゼロは戸惑うでもなく、ましてや嫌悪に顔を歪めるでもない。
まるでただの置き物のようだった。
そんな風にさしたる抵抗もせず、黙ってされるがままでいるゼロだったので、すぐに興が殺がれてリリ姫は足を離し、再び湯に沈める。
やがて手持無沙汰になったリリ姫が、空から薔薇を取り出してははなびらを千切り、湯船に浮かべ始めた頃、控え目にバスルームの戸がノックされた。僅かに開けられた隙間から、バスルームに向けてかけられる声は彼女お付きの侍女のものだった。
「リリジマーナ姫様」
その声を聞き、肩を竦めて、ゼロが目にかかるかかからないかのぎりぎりまで湯に顔を沈める。
彼のその様を見て、初めて姫はうっすらと口角を優雅に持ちあげて笑い、ついたての向こうの者に話しかける。
「目が覚めてしまったので気分転換に湯あみをしているだけです。寝汗をかいてしまったので」
「お手伝いを」
「結構です、ひとりでいたい気分なの。ありがとう」
簡素にそう言われ、侍女も食い下がることなく、すぐさま姿を消す。
湯に顔を半分埋めたまま、ゼロは息をつく。ぶくぶく……と表面が泡立った。
「寿命が縮まるかと」
顔を出し、その拍子に浮かんでいたはなびらが頬や顎に貼りつく。それを摘まんで取ってやりながら、リリ姫はやわらかく微笑んだ。
第三者の登場によって、それまで生気もなにもなかったゼロは、ようやくひとらしくうろたえ、結果的にリリ姫と彼の凝り固まった雰囲気は一気に和らいだ。
「次からはここの扉にも施錠の魔法をかけないといけませんね」
「はい。もし何かの弾みで明るみになったりしたら……」
「追放?」
「それだけで済むのならむしろ恩の字です」
「そうね、逃げ場のあてはありますものね。またネオトピアで匿ってもらえば良いのですから」
ゼロにとって――また彼女にとっても、かの騎士にとっても――辛い二年間をまるでからかうような発言に、リリ姫を睨もうとして、しかしやはりそんなことは出来ずに、目を伏せた。
「あまり意地悪を言わないでください」
真夜中、このふたりきりの時間において、昼のお姫さまらしいわがままとはまた違った種類の、自暴自棄であてつけるような姫の言動や、その立場を弁えずあまりに正直に振る舞うゼロの態度は「お互いさま」と表現する他なかった。
「ごめんなさい。言葉が過ぎましたね」
姫も僅かに頭を垂れる。毛束がゆらゆらと湯の中を漂うのが見えた。
そうあっさりと謝られると、どうしていいのかわからない。
ゼロがそろそろと顔を上げようとすると、それよりも早くリリ姫が彼の手を掬い上げた。
「十分温まったわ、もう上がりましょう」
今度は履き物を履いて、足音を立てないように注意を払って廊下を歩く。姫の持ち物に加えて絞ったままのマントを抱えたゼロも、来た時と同じように後に続いた。
城の石化が解けてすぐに、リリ姫の部屋と同じ階にあった空き部屋にゼロは居所を移した。
親衛隊の騎士ガンダムたちの部屋が連なる階にゼロの部屋もあったのだが、何度朝が来ても開くことのない数々の扉は耐え難く、まるで質量を持ったようにゼロの肩にのしかかった。
姫も姫で、今やひとりきりになってしまった自分の騎士を手元に置き、目をかけてやりたがったのだ。
彼らは互いを少々度を越して過保護に扱っていた。
このいびつな関係も一時の迷い、新しい騎士ガンダムが生まれ、彼女に忠誠を誓うまでのほんの僅かな間だけのものであれば良いとゼロは思う。
リリ姫もきっとそう思っていらっしゃるに違いない。
期待を込めて、同時に何故だか確信をも持って、ゼロは前を進む姫の背中を追う。
その内、ひときわ細やかな細工が施された扉の前でリリ姫が立ち止まった。姫と扉の間に身を滑り込ませ、ゼロはそれを押し開く。
部屋の内側に入り、外に立つゼロに向き直って、彼の腕の中から荷物を取り上げる。就寝の挨拶と共にリリ姫はゼロの頬を撫でた。親が子にする良く眠れるおまじないのようなものだ……。
「おやすみなさいゼロ」
「おやすみなさい姫。良い夢を」
「あなたもね。悪夢でなければなんでもいいです」
くすくすと笑ってリリ姫は一歩下がる。幾分か活力を感じさせるその表情にゼロは大いに安堵して、そっと扉を閉める。
近い内に、王に頼んで彼女をネオトピアにお連れしよう。シュウトやキャプテン、SDGの仲間たち、ネオトピアの人々の軽やかな笑顔を見ればきっと心も晴れるだろう。
なんなら騎馬王丸を引っ張って天宮に行ったっていい。元気丸も、顔には出さないだろうがきっと喜ぶ。かの武者頑駄無とも喧嘩し足りないと思っていたところだ。
ひとりきりの廊下で自室に向かいながら、ここにきて、ゼロはやっとマントを広げる。
絞り切ったままの形で放りっぱなしにしていたそれはしわくちゃで、全く美しくはなかった。
思わず苦笑してしまう。まるでさっきまでの自分たちのようではないか。
早く吊るして皺を伸ばしてやらないと、とゼロは足音に慎重になりながらも、足早に部屋へと帰っていった。