思えばまいんは、ついこの間に初めて包丁を握ったばかりで、まだその扱いには慣れていなかった。
天性の勘を持ち合わせていただけでなく、それらを一度も空ぶることなく使い、飲み込みも早くて、様々なピンチを乗り切って来ていた。
だから、その才能に惚れ込んでいたミサンガは、あまりに鮮やかにまいんが料理の腕前を上げて行くのでうっかりしていたのだ。
規則正しく、とんとんと続いていた、包丁が薄いキャベツを切り、まな板に擦れる音が不意に乱れた。
「きゃあっ！」
高い叫び声を聞いて、ミサンガはぎょっとする。手の中から分厚い事典がぽろりと落ちた。
声のした方を見る。まいんが床にへたり込んでいた。
「まいん！？」
フローリングに固い事典が角をぶつける音が響く。手から取り落としても、床にぶつかる前に消してしまうとう考えは掠めもしなかった。
事典の真似ではないが、飛ぶというよりも一気に落ちるようなやり方でまいんの元まで駆ける。
「みっ、ミサンガ！　ゆび、指切っちゃった」
勢い良く頭が上がった。その顔には恐怖でいっぱいになっていて、眉は八の字、口元はくにゃくにゃに曲がり、瞳には涙の膜が厚く張っている。
にんじんの髪飾りで結んだ一房の髪がまるで鞭のようにしなって、ミサンガが咄嗟によけなければ確実に頬に赤い筋を焼きつけただろう。
それを掻い潜り、まいんの手元に滑りこんで、ミサンガはまいんが右手でぎゅうと包んでいる左の人差し指の先を摘む。
「深いのか？　ちょっと見せて」
「うん…」
そっとまいんは右手を緩めた。
人差し指の腹に、一本白い線が横に入っている。その皮膚の切りこみはさほど深くなかった。
血もじわりと滲んでいるだけで、次々と赤い粒になって溢れて来る様子もない。
「ああ、これくらいなら」
軽傷ではあるが、まいんの包丁を握る手から、たとえ彼女に質問された答えを探していたからといって、途中で目を離した責任を負うべきだ。
なんて小難しい風には全く考えず、ただ、まいんの指に血が滲んでいて痛そうだったから、ミサンガはまいんの指を両手で包むように握って、口に運んだ。
柔らかい粘膜が、刃物を入れただけでなく、恐れですうっと冷えていた指を包む。
まいんが僅かに肩を揺らした。
それに気付かないで、ミサンガはぴたりと舌を傷口の上に這わせ、ほんの少し舌先を動かして舐める。
血液の味よりも皮膚とほんのりした汗の味の方が勝っているくらいだから、こうしていたらじきに止まるだろう。
舐めたのはその一回きり、後は口に含むと言った方が近かった。舌は全く動かない。
「いいよミサンガ、自分でやるよ」
なんだか赤ちゃんがお母さんの指を吸っているみたい。
まいんが一瞬でもそんな風に考えていたことを知れば、ミサンガはじと目でまいんを見つめてから離れただろうが、当のまいんも、ぼんやりとした状態から覚醒したことですぐに忘れた。
当然のようにミサンガが指をくわえたので、驚いて反応が遅れてしまった。
嫌だというわけではない。遠慮…ともまた違う。
「そういえば教えてなかったっけ」
ミサンガは一旦口から指を抜いて、しっかり両手で人差し指を支えて口を開いた。
「妖精の舌は傷を癒すことができるんだ」
へええ、とまいんは感嘆の声を上げる。
「そうなんだ」
「うん」
なら、まいんはミサンガに指を預けっぱなしでいられる。まいんは肩の力を抜いた。
都合の良い理由をつくって貰った気分だ。…と思う今こそ、まいんが何故そう思うかに気付いても……は、期待しすぎにしても、せめて少しくらい考えても良いタイミングだったのだが、なかなかそうはいかないもので、彼女はすっかり安心していて、そんな隙は端からなかった。
そしてこちらはこちらで、怪我をしたらまず水で洗うという基礎を教えるチャンスを無意識の内といえど逃してまで何故この手段を取ったのか。
それだけでなく、あまつさえ、
「うそ」
とわざわざ申告しなくてもすぐにばれる嘘をついたのか。
痛みを紛らわせる、飛んで行けのおまじないならともかく、それだって黙っていないと、ばらしてしまっては意味がない。
うそ、の一言と一緒に、べっとミサンガは舌を出した。まいんが「え！？」と目を見開く。
ミサンガはそれを引っ込めず、仕上げとばかりにまいんの人差し指を舐め上げた。