沈む夕日が明々とした光を放ち、文字通り進む道を橙色で充満させていた。
新天地目指して旅を進める集団の中、最後尾の尚香は隣を歩く陸遜に声高らかに歌い上げた。
「さあ陸遜、これからはあたしのこと姉さんって呼びなさいね」
「? へ? なんでですか?」
突然のことにぽかんとして、陸遜が間の抜けた声を漏らす。
「なんでじゃないわよ、家族なんだから当然でしょ」
人差し指をぴんと立て、くるくると回しながら尚香は台詞と同じように、さも当たり前であるかのように言った。
尚香の指先を蜻蛉のように目で追ってから、陸遜は一歩前を行く一族に目を向ける。
燃えるような赤にも似た色合いの光に向かって、確かな足取りで土を踏みしめる背中がいくつも並ぶ。その様は壮大で、彼等が新しい家族かと思うと、すぐに順応できそうにないと感じるわけではないのだが、それでもなんだか実感が持てない。陸遜はぼんやりとその背中を眺め、しかし直ぐに尚香へと意識を戻した。
「もちろん呼ぶだけじゃないわ、実の姉のように慕ってくれたって構わないんだから」
末娘の尚香にとって、年下の陸遜は初めてできた弟分のようなものだ。顎をちょっと上げて目を閉じ、年上のお姉さんぶってそう言うが、すぐさまぱっちりと開いた目は煌めいて、陸遜を期待の眼差しで射抜いた。
そんな仕草をされては(恐らく彼女は無意識だろうけれど)聞かないわけにはいかなかった。
「ね…ねえさん」
戸惑いながら、一先ずは言われたとおりに呼び掛ける。ただ口にするだけでなく、実際に彼女を弟がするように呼んだつもりだ。
しかし尚香は返事を預け、人差し指で唇をノックしながら考え込んだ。
「んー……、姉上」
「あねうえ」
「尚姉」
「しょうねえ」
「お姉ちゃん」
「おねえちゃん」
尚香に示されたとおりに、陸遜は呼び方をどんどん変える。
「うぅーん……なーんかしっくりこないなあ」
のだが、尚香がばっちりはまったと感じるものはなかったようで、彼女はそれ以上呼び名を陸遜に試させようとはしなかった。
「姫様をそんな風に呼ぶなんて恐れ多いです」
「堅っ苦しいなあもう」
尚香にとって陸遜のその台詞は、「当たり障りのない対応」のように思えた。
かと言ってその対応を取られて寂しいのかというと、それはまた違うのだが……どちらかというと含むところなく、単純に「つまらない」といったところだ。
「いいじゃないですか、姫様。可愛いですよ、ひめさまーって」
「ちょっとぉ、それってあたしが可愛いんじゃなくて姫様って呼び方が可愛いんでしょ!」
頬を膨らませる尚香が本気で怒っているのではないとちゃんと察した陸遜は、それに乗っかってじゃれつく。
「ひめさま、ひめさまー」
「もー!」
両手を振り上げてばたつかせる尚香から逃げるべく、陸遜はたっと走り出す。迷うことなく尚香はそれを追いかけた。
孫策達を追い越して、彼等の目を丸くさせては、また彼等の元へ引き返してくる陸遜と尚香の笑い声が空に放りだされる。
「尚香のいい遊び相手になってくれそうだな」
「遊び相手…」
妹が聞けば、子ども扱いして! と唇を尖らせるような発言だ。
しかし孫策がそう言うのも良く解る。孫権はすぐ前を横切った追いかけっこに一瞬呆気にとられ、しかし直ぐに声を立てて笑った。


たった今周瑜に弟子入りした陸遜に、尚香はにっこり笑って声をかける。
「良かったわね。しっかり勉強するのよ」
「はい! たくさん修行して、僕、強くなってみせます!」
軍師とは本来、強い・強くないが根底にあるような役職ではないのだが……しかし三璃紗の軍師達は何故だかどいつもこいつも武術に関しても達人並だ。周瑜もその例に漏れず。孫一族の厳しい教育方針(なんせ女の子の尚香であろうと兄達と同じ虎の子だ)に則れば、陸遜は周瑜からただ兵法だけを学ぶことにはならない。
陸遜は胸の前でぎゅうと手を握りしめた。そうして決意を露わに、先刻己を守るために敵に立ち塞がった背中の持ち主に宣言する。
「次は姫様を守れるように!」
尚香を見上げるその瞳は、少年特有の、自分を信じて疑うことを知らず、触れたら薄く切れそうなほどに澄んだ眼差しだった。