劇的なきっかけがあった訳ではなく、ゆっくりと少しずつ、なるべくしてなったとでも言おうか。
なるべくしてなる、それすなわち運命(と書いてさだめと読む)ではなかろうか、目の前の男を見ながら少女はそう思う。
運命なんて言葉は似合わない上に寒々しいので、彼女はなんとかして事の発端を探そうと記憶を辿り、一つの出来事を思い出した。
そう言えばあった、きっかけとも呼べないきっかけが。劇的でもなんでもなかったが。


針に通した黄色い糸で、ぬいぐるみの足のほつれを縫い直す。
町から町へと移動する途中、裸の地面に雑草がまばらに生える開けた場所で昼食をとり終えたのが数分前。
思い思いに一息つく面々から少し離れて、アニスは適当な切株に座り、大事な相棒を抱えていた。
裂かれた布から白い綿がはみ出している。
道すがら、襲ってきた魔物の爪に引っかかれてしまったのだ。
もちろんそれくらいでアニスもトクナガもやられやしないし、仲間とのコンビネーションで100倍返しにしてやった。
「でーきた。もう大丈夫だよ、トクナガ。痛かったねー」
丁寧に丁寧に塞がれた傷跡は、ちょっと見ただけでは縫い目に気づかない程見事だった。
アニスがトクナガの脇に手を差し込み、高い高いして仕上がりに満足していると、横から声がかかった。
「おや、トクナガには痛覚があったんですか。それは知りませんでした」
トクナガを抱きしめてそちらに顔を向けると、微笑を浮かべたジェイドが立っていた。
「そーですよ、ずうっと黙ってたトップシークレットだったんですけどね」
彼の戯言に乗っかってアニスも返すが、もちろんトクナガは痛みなんて感じない。
どうでも良いことをわざわざ取り上げて、言葉の応酬をするのはこの男と少女のいつものじゃれあいだ。
「なら、そうやって首を絞めんばかりに抱きしめるのもやめてはいかがですか? トクナガが苦しんでいますよ」
「やだなぁ大佐ったら、トクナガはアニスちゃんのあっつーい抱擁には慣れっこ……あ、ねーねー、大佐」
「はい?」
せりふを途中で切って、アニスは大佐の軍服を指差した。
「それ、外れそうになっちゃってますよ」
上から二番目、アニスから見て左側のボタンが軍服から今にも落ちそうなくらいぐらぐらしている。
「ああ、本当ですね、いつの間に」
「よーし、お針子アニスの出番ですね」
「お願いします」
「はーい。あ、そのままでいいですよ」
トクナガを背負い、糸の端をたま結びにしたアニスは、軍服を脱ごうとしていたジェイドを制し、彼の軍服の合わせに手を突っ込んだ。
珍しくぎょっとする彼に、してやったりとほくそ笑む。
「じっとしてて下さーい」
すいすいと針を動かし、補強する。
素早く正確に動く小さな手は仕上げにボタンを摘まみ、しっかりと縫いつけられたのを確認した。
「いやー、いつ誤って刺されてしまうかと冷や汗ものでしたが、なかなかお上手ですね」
「いえいえー。いっそちくっと刺して差し上げればよかったですぅ」
降ってくる声に顔を上げて笑ってみせ、またすぐに正面を向く。
すっ、とアニスが彼の胸に顔を寄せる。倒れ込んでくるのかと、ジェイドは咄嗟に両手を彼女の二の腕あたりに持っていった。が、杞憂に 終わる。
糸が外から見えないように、ほとんどボタンに口づけるようにしてアニスは口に含んで糸を切る。
「はい、おしまい」
体を起こし、ボタンをつつく。トクナガに続いていい出来だ。
アニスが見上げると、きょとんと見下ろす彼と目が合った。
またまた珍しい表情だが、この反応はなんだろう、とアニスは不思議に思った。
隙だらけな顔をしている大佐はめったに見られるものではないので、見つめてみる。
が、まじまじと見つめ返されてしまい、なんだか気まずくなったアニスは目線を外した。彼女に触れる一歩手間の位置にある手が目に入る 。
「大佐ぁー? なんですか、この不埒な手は」
じと目で見上げると、ジェイドはそこでようやく手をおろした。
「いえ」
ずれてもいない眼鏡を押し上げ、彼はにっこりと笑う。
「ありがとうございます。あなたはいいお嫁さんになれますね」
彼にしては随分とストレートな誉め言葉に、アニスは空を仰ぐ。雨雲も雪雲もなし。眼鏡か槍でも降ってくるのか。
「お世辞はいいからお駄賃下さいよぅ」
アニスは頬を膨らませた。

あれがきっかけになって、なあんとなく、そういったレールに乗せられてしまったのかもしれない。
そして、レールに乗ってしまえば、脱線でもしない限り、スピードの速かれ遅かれはあれど終点まで運ばれるのだ。
こほん。小さな咳払いによってアニスは追憶から引き戻された。
今日の宿はなかなか格安で、久しぶりにパーティーの人数分の部屋が取れた。
そのジェイドの部屋に夕食後に呼び出されて、アニスはのこのこと出向いたのだった。
前々から、そろそろジェイドがもう一歩踏み入んできそうだと察していたアニスに、扉をノックするのに心の準備は必要なかった。
「いい年した男がこんなことを、それもあなたのような子どもに言うのも恥ずかしいのですけれど」
彼の言った子どもに突っ込んでやりたかったが、アニスは空気が読んで黙っていた。
少女趣味はないって言ってませんでしたっけ、とも、いくらいつものふざけた調子でも言えなかった。
彼に少女趣味がないのと同じように、アニスとて、おじさま趣味ではないのだ。金の亡者ではあるが。
そこには、アニスだから、大佐だから、といった理由がでんと構えているのだ。
二人は揃って床に座わり向き合っている。なにぶんお安い宿なので、ソファーなんて気のきいたものはない。
唯一腰を掛けるのにベッドがあるが、それもなあ、今の状況じゃちょっとなあ、と口にこそ出さなかったがお互いに遠慮した。
で、薄っぺらい絨毯の敷かれた床である。
賢い男は実に自然に見せかけてアニスをここまで誘導し、こちらもお利口な彼女はわかっていながら誘導された。
その男が、だ。
さっきから何回もこういった前置きだか言い訳だかをしているだけで、ここから先をなかなか言わないのだ。というより言えないのか。
これは終点でなく、ただの通過点であるはずだ。もっとさらりと言ってくれないと。
更に、ようやく口を開いたかと思えば、
「私は、たぶん、あなたが」
「多分ってなんですか多分って」
子どもは聞き流してやれたが、これはそうもいかない。
「いえ、そうじゃなくてですね、たぶんではなくて、えー……」
似合わないことに畏まっているのか、正座をした彼は背筋を伸ばした。
「すー……」
「すー?」
釣られて正座していた彼女はいよいよかと同じく背筋を伸ばす。が。
「………」
「もーう! なーに戸惑ってんですかこのお!」
つーかキモいわ! 正座してるのも言い淀んでんのも。普段は立て板に水のくせに、ぐじぐじ悩んでんじゃヌェーよおっさん!
叫びたいのをぐっと堪える。ことアニスに関しての彼は、表面には出さずとも挫けやすい上に引きずるので面倒なのだ。
「いやー、睦言や殺し文句ならいくらでも言えるんですけどね。純粋に口説くのはあなたが初めてなもので」 「ぎゃー、最低!」
今までずっと、体ばかりで真剣なお付き合いをしたことがないと暴露しているようなものだ。
正座したまま、じりじりとアニスが後退すると、ジェイドは一々傷ついた顔をした。ああ面倒臭い。
「あーもう、いいですよ、怒りませんから。名誉ある口説かれさん一号になれて光栄です」
ここに来て脱線しかけているのに気づき、軌道を修正する。
最低は最低だが、アニスは今までの一人に組み込まれないと証明されたし、初めてと言われて嬉しかったりもする。こちらも初めてだから 。
「二号なんてありませんよ」
二人はやっと笑顔になった。さて、今ほど口説くのにぴったりなタイミングもない。のだが。
「……」
「……」
「ちょ、まさかこのままうやむやにする気ですか。せっかく雰囲気も上手いことできてたのに」
「やっぱダメですか」
「ビンゴかよ!」
「なかなか恥ずかしくて」
「むー、アニスちゃんもお手伝いしてあげますからあ、いい加減ちゃっちゃと言って下さい。このままじゃ朝になっちゃう」
「助かります」
「しょうがないなあ。じゃあいきますよー、アニスちゃんは大佐が」
「私はアニスを」
「「せーの」」

「愛しています」「だぁいすきです」

「……」
「あれっなんか好きからパワーアップしてるんですけど……
って、いやっ、そんなわかりやすく落ち込まないで下さい! 今どき体育座りって、のの字って!」
どよんと暗い影を背負って、爪先を壁につけて座る彼に慌てて駆け寄る。
ジェイドの爪先を跨いで壁を背にして、アニスは狭い隙間に座った。体を壁から起こして、彼の膝頭に手をおく。
加えて、膝頭から足首までに体を寄りかからせ、だめ押しに目をうるうるさせて顔を近づけた。
「大好き、じゃ不満ですか?」
「はい」
「きっぱり!」
「私はピオニー陛下が大好きです」
「うわぁ」
「ネフリーも大好きです」
「ふへぇ」
「バルフォアの両親やカーティスの両親も大好きです」
「はあ」
「ネビリム先生も」
「はあい」
「サ、いやあれは違うな。ルークにガイ、ナタリアにティアやミュウ、みなさんが大好きです」
「はい」
「当然イオン様も」
「イオン様は私のです! あっ違っ、私はイオン様のです!」
「………」
「はうあっ、大佐、頭からきのこがっ!」
「腐りますよ」
「手遅れです」
「とにかく、大好きな人は私にもたくさんいます。ですが」
額がくっつきそうになるまで近寄られ、もう目線を外すことは許されなくなった。
この先が読めたアニスはこっそり悔しがる。さっきは好きが言えなかったくせに。
「愛しているのはあなただけだ」
読みを見事当てたアニスは深々とため息をつく。ここまで言われては仕方ない。
「えっと、私も、パパとママが大好きです。イオン様も大好き。ティアもナタリアもルークもミュウもガイも。 教会の友達や陛下、トクナガ。あ、もちろんガルド。おまけにディスト」
「ちょっと行ってきます」
「どこへですかそんな物騒な槍持って」
「ゴキブリ駆除に」
「もう、これから大事なこと言うのにい。聞き逃したって二度と言いませんから」
アニスが頬を膨らませると、彼は大人しく座り直した。意外と扱いやすいなこいつ。
なんでもない風にジェイドを見上げて、アニスは伝えた。
「愛してますよー、大佐ぁ」


こういった儀式(愛の告白なんてアニスは言わない、断じて!)(でもジェイドは言う)を経て、次の日から二人はレールの上を爆進することになる。
儀式を終えた二人は幸せそうにべたべたしていたが、風呂がまだだったのでアニスはじきに部屋に帰った。
入浴を済ませたらまた来てくれるかもしれないとジェイドは期待していたが、アニスはそのまま眠りこけ、再び顔を合わたのは朝食の席で、そこにはみんながいた。
腹ごしらえも終わり、また世界をひっくり返すような旅の一日が始まった。
最後尾を歩くアニスの横には当然のように彼がいる。
特にそれを気にするでもなく歩いていると、するりと手に手が滑りこんできた。
ぎゃっ! と短い悲鳴を上げて青いグローブに包まれた手を振りほどく。
「つれませんねぇ」
それにアニスが言い返すよりも早く、前を歩くナタリアが何事かと振り返った。
「アニス? どうしまして?」
「あっ、ううん、なんでもない。えっと、ちょっと、なんか」
「ちょっとこけそうになったんですよね」
平然と嘘をついてジェイドが差し出した助け船に、てめえの仕業だろうがという文句を飲み込み、アニスは乗っかった。
「そうそう。アニスちゃんとしたことがうっかりしちゃってて」
自ら頭を小突くアニスに、ナタリアは優雅に首を傾げた。
朝の太陽に照らされ、ナタリアの金髪が一層輝くように縁取られる。眩しさにアニスは目を細めた。
「そうですの? お気をつけて。この道は舗装されていませんから、転んでしまっては大変。傷になってしまいますわ」
ナタリアの気遣いが、アニスに罪悪感となって突き刺さる。
「うん、ありがと、ナタリア」
ナタリアは視線をスライドさせ、ジェイドを見上げた。
「ジェイド、しっかりアニスを見ていて下さいませね」
何故そうなる。
「そうですね、怪我をしては大変ですから、しっかりと見張っておきます。そうだ、念のために手でも繋ぎますか」
何故そうなる。
ジェイドはたった今思いついたかのように、いけしゃあしゃあと言ってのけた。
「そうして頂きましょう、アニス。それが一番安心ですわ」
頷くナタリアにアニスは頷き返せず、次いで差し出された手には呻き声をあげた。
過程は彼が考えていたものと違ったが、最終的にはアニスの手を握ることに成功したジェイドは至極ご満悦だった。
「賢いですね、さすがはアニス。こうした方がみなさんに隠してこそこそせずに、堂々とできると計算したのでしょう。
それなのにつれないなんて言ってしまってすみません」
近年まれに見るポジティブシンキング。どこかの大佐じゃあるまいし、そんなしょうもない計算をアニスはしない。
これだけでも勘違いもいいところなのに、堂々と、ときた。
二人は未だ最後尾にいるので、こうしているのを知っているのはナタリアだけだ。
これ以上堂々とはできない。他のみんな、それもイオン様に知られたら、とアニスはひやりとした。
あ、いや、でも、と前を歩く主の背中をアニスは見つめる。
妬いて欲しい訳ではないが、きっとイオン様は今の二人を見ても穏やかに笑うだけだろう。
相変わらず仲がいいですね。幻聴レベルにまで安易に想像できる。
「アニース」
名前を呼ばれ、渋々と見上げると、朗らかな笑顔をした彼に手を握り直された。
唇を尖らせ、アニスは自由な方の手でジェイドの指を外しにかかる。
「離して下さいーっ」
「何故ですか? 私達、もうそういう仲でしょう?」
ジェイドはますます力強く、ただ包んでいただけの手を、アニスの指と彼の指とを一本ずつ絡める繋ぎ方に変えた。
俗に恋人繋ぎと呼ばれるが、彼のはそう呼ぶには甘さのかけらもない。まず気合いと力が入り過ぎだ。
両者が同時に力を抜かなければ解けない、つまりどちらかが離そうとしても、
もう片方がそれ許さなければ逃れられない繋ぎ方。いわばこれは、指ギロチン。
「うわ、きもちわる……じゃなくて、確かにそうですけど……って、そうじゃなくって!」
爪を立てて甲をつねってやる。するとようやく彼は彼女の手を離した。
鋭い目付きでアニスはジェイドを睨みつける。そもそも二人の考え方が真逆なのだ。
もう以前の、親子のようで、気の置けない悪友といった気楽な仲ではなくなったのだから、人前でじゃれあうのは控えたい。
だってみっともないし、恥ずかしいではないか。というのがアニスで、やあっとそういった仲になれたのだからもっといちゃいちゃするべき!するべき!がジェイドだ。
「夜あんなにべたべたしたのに、みんながいるのに、お昼なのに、今することないじゃないですかっ」
ここに来てようやくジェイドは、アニスの主張が彼のものとは違うことに気づいた。
「ああ、アニスは照れ屋さんなんですね」
「そゆこと。大佐とは違って奥ゆかしいんです、恥じらいがあるんです」
やっと通じたか、とアニスがほっとしたのはつかの間、何故だか彼はにたりと笑った。
「ははあ、つまり」
日光が反射して、押し上げた眼鏡が白く光る。
「二人きり、夜なら構わないと」
「ぐあっ」
アニスは大きく飛び退いた。いや、確かに彼の言う条件下なら、手を繋ごうが構わない。
彼女とて、引っつきたくないわけではないのだ。好きなのだから。
間違ってはいないのだが、しかし彼のその言い方ではまるで……
「アニスはいやらしいですねぇ」
「くっ、くたばれぇー!」
トクナガを大きくするのも忘れて、アニスはジェイドの弁慶を目がけて右足を繰り出した。
操の危機をびしばし感じたアニスだったが、一ヶ月が過ぎても決定的なことは何もなかった。
ジェイドは誰も見ていないところでアニスの頬をつついたり、髪に指を絡ませたり、 膝に乗せたり、抱きしめてみたりするだけだ。
スキンシップ過剰とでも言おうか、それだけで留まっている。
彼はアニスとの触れ合いを貪欲なまでに欲しがっている割には、その先にあるはずの性的なことには素振りすら見せないのだ。
「あの……別に、おでこだけじゃなくても、その」
寝る前、アニスの額に口づけるのが新しい習慣になりつつあるジェイドに、彼女は彼の唇が離れたばかりの額を押さえておずおずと言う。
もじもじするアニスを凝視して、一つ瞬きをする間だけ止まった彼は、くっ、とふき出した。
「なっ、なん、なんで笑うんですか! ひどい、信じらんない、子ども扱いしてばかにして、大佐なんかもう知らない!」
相手にされなかったことに恥ずかしくて悔しい思いをし、アニスは顔を真っ赤にして怒る。
勢いに任せて枕を投げつけるが、あっさりと止められてしまった。
「ああ、すみません。確かに子ども扱いは否定しませんが、決して馬鹿にはしていませんよ。許して下さい」
口では謝るが、態度では悪びれもせずにジェイドは嬉しそうに笑みを深くして、今度は頬にキスした。
「そういうのをばかにしてるって言うんですよこのおっさん!」
一体いつになったらまともなキスをするんだ、と続くはずだったアニスの言葉は、喉の奥に飲み込まれた。
「ほーう」
いつもは口づけた後、かき上げたアニスの前髪を丁寧に下ろす大きな手が、アニスの肩に添えられた。 そこを軽く押され、真っ赤な目に射抜かれたこともあって、体中の力が抜けたアニスはベッドに沈んだ。
やば、おっさんは地雷だったか。
顔面から笑みを消失させたジェイドは両手を、アニスの傍らに挟むようにしてつき、ぐっと体を倒してきた。
「あ、あの」
緊張に震える声も、赤くなったり青くなったりする顔も見られたくなくて、アニスは顔をシーツに埋めようとする。
が、ひんやりとした手が彼女の頬を包んでそれを妨げた。
恐る恐るその手の持ち主を見やると、いつになく真剣な表情をした彼と目線がぶつかる。
ますます体が強張り、狼狽えるアニスの頬に添えた手を、ジェイドは。
ふにっ。
「…………は?」
揉んだ。
「えっ、えっ」
ふにふに。
「え、ちょっと、なにこれ」
ふにふにふにふにふにふに。
「いやあの、たいさ」
みよ〜ん。
「ひゃにひゅるんれふかぁ」
彼はアニスの抗議を聞き流し、引っ張ったり戻したり、円を書くように撫でたりと好きなようにいじり続ける。 気がすむまでアニスの頬をこね回したジェイドは、顔面に笑顔を復活させて体を彼女の上から起こした。
「察して下さい。子ども扱いするなと言われましても、実際に世間から見たあなたはまだ幼い。私も捕まりたくありませんし」
ベッドに腰掛けて見下ろしてくるジェイドに、アニスは先ほどとは違った意味で力が抜ける。
「それって、私が大人になるまで手ぇ出さないってことですか」
「そういうことです」
肩透かしを食らってぐったりとベッドに身を沈めたままのアニスにジェイドは手を差し出す。
アニスがのろのろと手を伸ばしてそれに重ねると、彼はアニスを一気に引っ張り上げた。
「さて、今日はもうお休みになって頂いて結構ですよ。ティアとナタリアが心配します」
「はあ、なにそれ、さんざん好き勝手したくせに、なんか………あーもう。そうする、もう寝ます。お休みなさーい」
「お休みなさい。良い夢を」
今日もまた過剰なスキンシップだけで終わったことに安心とほんの少しの残念を抱えて、アニスはドアノブに手をかける。
部屋を出ていくその背中に声が投げられた。
「気長に待ちますから、そう急かさないで下さい。たとえあなたが一刻も早く私に濃厚に愛されたいと「きしょいわ!!」


それから更に一ヶ月、じれったいにも程がある触れ合いを続けていく中で、アニスはジェイドのある習慣に気づいた。
週に一回、彼は皆が寝静まってから一人起き出し、こっそりどこかに出掛けるのだ。
そして皆が起き出し、朝食の準備をしている時に、朝の散歩から帰ってきたかのように見せかけてパーティーに紛れてしまう。
他のメンバーは彼が夜に抜け出しているのはもちろん、散歩の頻度が週一であることにも気づいていないようだ。
誰よりも彼を見ているアニスだからこそ気づいたと言えよう。
帰ってきたジェイドからする甘い匂いは、より早くアニスに勘づかせるのを手伝った。
彼の軍服から、ティアの次に羨ましい彼の髪から、優しくて甘い香りがするのだ。
「はっはーん」
コーヒーを啜るジェイドを離れた席から見つつ、アニスは呟く。
隣でアニスの淹れた寝覚めのホットミルクを飲んでいたイオンが首を傾げた。
「アニス?」
「いえっ、ただの独り言です」
慌てて首を振り、朝食を再開したアニスは、トーストをかじりながら頭の中を整理した。
誰にも何も告げずに夜脱け出す男、その頻度は週に一回。帰ってくるのは朝、服と髪からする甘い香り。
これはもう、もうもうもう、ここまで揃えばあれしかないだろう。うん、女の人だ。
いくら世界のために走り回る旅をしていても、禁欲生活を強いられている訳ではない。
大人だし、男だしで、アニスには解らないあれやそれが、それは色々あるのだろう。
パーティーには他にも男性がいるが、
イオン様はそんなものからは一番離れた場所にいらっしゃって、ルークはまだお子様、ガイなんてそれ以前の問題だ。
アニスにぶつけられないものを他所でどうにかしている、きっとそうだ。
あの甘ったるい匂いは女の人の香水が移った、絶対そうだ。
ここまで考えて、アニスはにやにやが押さえきれなかった。
アニスちゃんったらもしかしてもしかすると大佐の弱味握っちゃった?
にやりと笑うアニスには、彼や見えない女性達への嫉妬や憎みといった類いの感情は微塵もない。
やきもちすら焼かないのは、それはいくらなんでもどうだろう、と彼女自身思わないことはない。
のだが、ジェイドの気長に待つ発言を聞いたアニスは自分を可哀想だとは思わなかった。
むしろ、随分と年の離れた彼女を好きになってしまったお陰で、彼やその女性達の方がお気の毒だとちらりと思ったくらいだ。
あちこちを移動している中での出来事なので、お相手は固定されておらず大方その場その場でとっかえひっかえしているのだろう。
その割には彼からする香りはいつも同じだったが、ある企みを思いついたアニスはその重要な点には全く気づかなかった。
今のアニスを占めるものはただ一つ。
これをネタにしてお金ふんだくってやろう。
この子たくましい、たくまし過ぎる。
知れば誰もがそう思わずにはいられない魂胆を胸に、アニスは好機が訪れるのを数日間待ち、
とうとうやって来た勝負時に、彼女はジェイドに向かっていった。
時刻は昼と夕方のど真ん中辺り、宿に早めにチェックインした一行は、各々好きなように出掛けている。 部屋に残っているのはアニスとジェイドだけ。
それまでベッドに腰掛けて本を読んでいた彼は、アニスが近寄ると栞も挟まずにそれを脇に置いた。
「たーいさぁ」
すかさず彼の胸にダイブして、彼の首に己の腕を絡める。
「どうしたんです、珍しい。今日は甘えたさんですね」
しっかりとアニスを抱き止める。
ジェイドに親密な触れ合いを求める時のアニスは、普段の明るさを引っ込めて、ためらい勝ちに彼の軍服の裾を掴んだり、髪を軽く引っ張ったりして合図するのだ。
それが今に限って、普段と同じように振る舞うので、彼もこれは何かがあると思ったようだ。
「あのねあのね、アニスちゃん、おこづかい欲しいなあ」
腕をジェイドの首からほどき、軽く握った両手を口元に持って行って首を傾ける。お得意の猫かぶりポーズ。
「さあて、どうしましょうね。あなたが私を階級ではなく名で呼んで下されば考えます」
彼の意図するところがすぐには解らず、二回瞬きをして、ようやく理解したアニスは頬を赤く染めてベッドから飛び退いた。
その反応にジェイドは薄ら笑いを浮かべて小首を傾げ、アニスを見やる。
堪らずにくるりと背を向けるが、それすら彼にしては可愛くて仕方がない。あーかわいい、ほんとかわいい。
「わ、私知ってるんですから」
思いがけず出鼻を挫かれたが、照れをごまかすためにも仕切り直す。
「大佐が週一で夜な夜などっか行ってるの」
トクナガの下で手を組んで部屋の中をゆっくり歩く。
「みんなびっくりするだろうなぁ、大佐が隠れてこそこそ何してるか知ったら」
喋るごとにいつもの調子を取り戻し、意地悪な声をする。
「イオン様達にチクっちゃおっかなぁ」
そしてとどめの一言。
「大佐もまだまだお若いですねー」
踵に重心を移動させ、首だけで振り返る。
一瞬だけ考える表情をしたジェイドは、次に合点のいったように目を少し大きく開き、そして最後ににっこりと笑った。
「アニース、あなた、私がどこで何をしていると思っているんですか」
「え? そりゃあ……」
あれなお店であれなことでしょ、とアニスは言おうとして、動きが止まる。
この反応、ひょっとして間違った推理をしていたのだろうか。
ジェイドは再び首を傾げ、にこやかな笑顔でアニスに先を促した。
「……カジノ?」
思った通りを口にすればまずいことになると敏感に察したアニスは、それらしいところを挙げる。
が、ジェイドは首を縦にも横にも振らない。
「お酒?」
困ったアニスが苦し紛れに言うと、ジェイドは大袈裟にため息をついて首をすくめた。
「ばればれですよ。大方私がいかがわしい店に通いつめているとでも思ったんでしょう」
推理が違っていたことが確定し、アニスはびしりと固まった。
「本当、アニスはいやらしい子ですねー」
口角を上げて意地悪く笑う彼に、ぼんっ、とアニスは一気に顔を真っ赤にした。
「ちっ、違う、思ってない! カジノとかお酒とかって思ってました!」
彼女が声を張るのにも構わず、先ほどの十倍返しとばかりに彼はちくちくぐさぐさ続ける。
「皆さん驚くでしょうねぇ、アニスが私にどんな疑惑を持っているのか知ったら」
「是非ともイオン様に教えて差し上げないと」
「まあでも、アニスは思春期ですからねー、お年頃ですもんねー、
すーぐそういう思考になっちゃうのも仕方ありませんよねー」
ジェイドが言葉を重ねるごとにアニスの顔がどんどん赤くなる。
仕舞いにはぷるぷると震える彼女に彼はたいへん気を良くした。
そしてとどめに一言。
「いやー、若い若い」
「いっ……」
限界点突破。
「いーやー!」
その場にうずくまり、アニスはじたばたする。恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい!
「もうむり、はーかしい! やだ、せくはらー! うにゃあああああ!」
じっとしてなどいられずに、床をごろごろ転がる。
「うわあーん! もうほんっとーにっ……はれ?」
ベッドや壁にぶつかる前に、それよりかは柔らかいものにぶつかった。
顔を覆っていた手と指の間からそーっと見上げると、ジェイドが真上から見下ろしている。
アニスがばたばたしている隙に近くに移動していたらしく、彼女は彼の足にぶつかったのだ。
「それで?」
部屋の灯りが逆光になってアニスにはジェイドの表情が良く読めなかったが、声は僅かながら怒っている風に聞こえる。
「恋人が浮気をしているかもしれないというのに、あなたは嫉妬どころか脅迫ですか。
前々から知っていましたけれど、なかなかいい性格をしていますね」
「こいび……。た、大佐ほどじゃありませんよぅ。それに、結局私の勘違いだったみたいだし」
「傷つきました。つまりあなたは私が他の女性と仲良くしていてもどうでもいいということですね。
あまつさえそれをネタにお金を巻き上げようとするなんて。私よりもガルドの裏の肖像画の方がお好きだと」
「えっ、いや、そんなことは…………いや? いやか? えーと、うーんと」
「なっ、この期に及んで迷っているだと……いやでも即答でうんって言われなかっただけ進歩した? のか?」
双方疑問符をまき散らす。先に我に返ったのはジェイドで、床に転がったままのアニスをひょいと抱き上げた。
「ふわっ」
間の抜けた声を上げるが、それを彼が気にする訳がない。
トクナガを取り上げられ、ベッドに丁寧に仰向けに寝かされる。
慌てて起き上がろうとすると、両方の手首を捕まれた。
その手首をシーツに押さえつけるだけでなく、彼はベッドに膝をついてアニスに覆い被さってきた。
「ええええあああの、きなきょなきっきき気長に待つんじゃ!?」
「気が変わりました。そもそも私は気が短い方なんです、今思い出しました」
慌てふためくアニスをジェイドは満足げに見下ろす。
「かといって怒りに任せて嫌がるあなたを無理矢理に、というのは避けたいので、一応意思確認を。
いえ、それもまた一興ですが今することではありませんしね、次の機会にでも」
とんでもないことを口にして、彼はぎりぎりまでアニスに顔を近づけた。
「どうです、私と一戦交えませんか」
「う、え、あ、その……」
かつてない程近く、薄いガラス越しに赤い目がアニスを写す。
これひょっとして譜眼発動してるんじゃ。
だって、だって、つい頷いちゃいそうだもん。いや、ほんとは違うんだけど、つい、とかじゃないんだけどさ。
おろおろするアニスをじっと見つめたのち、ジェイドは微笑して体を起こした。
なんだかアニスがこんな風に狼狽えるのを予想していたように見える。少なくとも呆れているのではない。
これで質の悪い戯れで終わる、はずだった。
例の甘い香りが鼻をくすぐり、それを感じたアニスは解放された手で、反射的に離れていく彼の服の裾を握っていた。
ジェイドは伸ばされたアニスの手に、アニスは手を伸ばした己に驚き、固まる。
何が起きたか解らないように、彼は彼女の指先に釘付けになり、そして眉根をほんの少し寄せて笑った。
「アニース。ここでその行動は、私に都合のいい勘違いをさせてしまいますよ」 「………」
喉が乾いて声が出ない。心臓がばくばくしている。頬が手が胸が熱い。
まともに彼に視線を向けられず、ぎゅうっ、とより強く握り締める。
俯いたまま頷くことすらできないアニスの豊かな髪の間から、痛々しいほどに赤くなった耳が覗く。
ジェイドは口を顎ごと片手で覆った。
反対の手は後頭部の髪をかき混ぜるようにかく。軽く寄った眉は下がり、目線は部屋の一角に注がれている。
俯き勝ちにびくびくしながら、アニスはジェイドを見る。どうも彼は予想外の出来事に戸惑っているらしい。
いや、恐らくは戸惑いだけでない。
て、照れてる?
穴が空くほど見つめないと気づかないレベルで、頬が赤いようなぴんくのような全くそんなことはないような。
「アニィース……」
瞬きを何回も繰り返しながら彼を見つめていたアニスは、地を這うような声での呼びかけに肩を跳ね上げた。
お互い遠慮がちに目線を絡ませる。
子どものわがままをたしなめるような口振りのくせに、困りきってアニスに主導権を委ねて己から動くのを避けているのだ。アニスを傷つけないために。
赤い果汁が滴り落ちてきそうな目を見つめ、アニスは唇を開く。
「……か、かん、勘違い、じゃ、ない、です、よ………」
喉の奥からどうにかこうにか絞り出した声は、こんな状況でなければ確実に彼に笑われるくらいに震えてか細かった。
ジェイドは乱暴に頭をかき、最後に髪を一撫でして、ベッドに手をついてアニスに顔を寄せる。
「いいんですね?」
そう確認する彼は、駄目だと言えばあっさりと止めるのだろう。
彼女はまぶたをきつく閉じることで決意を表した。
アニスはアニスの意思をもって、小さくではあるがはっきりと頷いたのだ。
ゆっくりと空気が動いたのが解る。リラックスさせるためだろう、最初に固く閉じたまぶたに唇を落とされた。