玄関の扉を開けて真っ先に目に飛び込んできた、滅多に会えない人に、まいんは目を大きく見開いた。
「お帰り、まいん」
低いけれど優しい声色に力が抜けて、まいんの肩からランドセルがずり落ちそうになる。
「ただい……」
慌てて靴を脱ごうとして足をもつれさせ、躓いたまいんは、彼女の様子を見てすみやかに距離を詰めたその人の広い胸に飛び込んだ。
「お帰りパパ!」
何ヶ月振りかに会ったパパに、まいんはすっかり興奮して、彼が日本を旅立ってからの学校での行事、芸能スクールの友達のこと、自分が番組で作ってきた料理のレシピと本番でのピンチ、新しく覚えた歌、マスターしたダンスの振り付け…などなど、洪水のように話したいことが溢れてきて、それを一つずつ話そうとした。
「まいん、お話は手洗いうがいをしてからよ」
微笑ましい娘の姿にママは笑ってそう言った。
今回のパパの帰宅は、ママとまいんには全く知らされていなかった。そのためママの化粧もフルメイクではなくてファンデーションに口紅を塗っただけ。それでもとっても美人、と父と娘は揃って思う。
「はーい!」
洗面台で慌ただしく手を洗うまいんに、「とりあえずランドセルを置いておいで」 とパパは鏡越しの娘に笑いかけ、頭を撫でた。「それからゆっくり話そう」と。
「ミサンガミサンガ、パパが帰ってきたよ!」
勉強机の上にランドセルをほとんど放り投げるように置いて、まいんは部屋をぐるりと見回す。
綿がいっぱいつまったお腹をベッド代わりにして、それに寝転んでもふもふする度にミサンガだけでなく、それを見ているまいんもうっとりさせている、大きなうさぎのぬいぐるみを持ち上げる。しかし青い妖精は落ちてこなかった。
「どこか遊びに行っちゃったのかな」
机の下にも、クローゼットの中にもミサンガはいなかった。枕もひっくり返したが、やっぱりいない。
「まいーん、向こうで見つけた、変わった葉っぱのお茶があるんだけど、飲むかい?」
「うん、飲みたい!」
扉の向こうからかけられた声に、まいんは部屋から飛び出した。
リビングのソファーでまいんは両親に挟まれて座り、パパがいれた異国のお茶を飲みながら身振り手振りを加えて話す。
お茶はジャスミンティーに味が似ていて、甘味が全くなかったので、まいんにはちょっと飲みづらかった。
話題はさっきからずっと、両親も応援してくれているクッキンアイドルの番組での出来事が続いている。
本番で迎えるピンチは大体、無茶を言うおおばやしプロデューサーによるものだということや、どうやってその無茶をアイディア料理で乗り切ったかをまいんは楽しそうに話す。
本番の時は、料理や歌やダンスのことで頭がいっぱいで気付かないが、後になって、それもパパとママに話すために振り返ってみると、まいんは自分の料理の腕がちょっとずつ成長していっている手応えをしっかり感じていた。
世界を救う勇者様・まいんが、向かってくる強敵を剣で次々にずんばらりと倒して、どんどんレベルアップしていくイメージだ。
「それは困ったプロデューサーだな」
言葉の割には困ったようには見えず、むしろパパはまいんの話すおおばやしプロデューサー像を面白がっていた。
「そうなの! だからわたし、どうしようってなっちゃうんだけど、でもいつも、落ち着いて、まいんならきっとできるって助けてくれる……」
まいんが空想するその勇者様の肩には、触角の生えたペンギンのような可愛らしい妖精が乗っている。その妖精こそが、小さな村に住むただの少年だったまいんを、世界を救う勇者だと見初めた、いわゆる冒険への案内人兼お助けキャラなのだが……。
まいんはこっそり視線を巡らせる。パパとママとの間に僅かに開いた隙間にも、空中にもミサンガはいない。
「…友達がいるんだ」
いくらまいんが夢見がちな女の子だと知っているパパとママであっても、妖精とは言えないし、それだけでなく、まいんは一度ミサンガと喧嘩して、そして仲直りをしてからは迷いなくミサンガをパートナーだと思っていたのでそう言った。
「スクールの子かい?」
「うーんと……」
パパの問いにまいんは少し焦った。ずっと喋っていたのと、ささやかなピンチに陥って緊張しているのとで喉が渇き、お茶を一口飲む。
結果、それが思わぬ助けになって、うっかり味を忘れていたまいんは「にがーい」と舌を出して両親を和ませ、それ以上その友達について聞かれることはなかった。

 「久しぶりに料理の腕を振るいたくなったわ」
と意気込むママに今晩のシェフ役を譲って、まいんは部屋に戻った。
扉を開いて照明を点けると、まいんの部屋の窓に向かってふよふよ飛んでくるミサンガが目に入った。
「お帰りミサンガ。どこに行ってたの?」
窓を開け、まいんはミサンガを招き入れる。
「ただいま。
近くの農園だよ。まいんくらいの歳の子が、 その畑の隅っこを分けてもらって野菜をつくっているんだ。 この前散歩した時にその子が苗を植えてるのを見つけたから、 ちゃんと育ってるか時々様子を見に行ってるんだよ」
ここでミサンガは一つくしゃみをした。まいんはそっと窓を閉める。
そろそろ寒くなる時期だから、日が暮れてからの空中散歩はあまりお勧めできない。
ミサンガの小さな手を、まいんは両手で挟む。すっかり冷えきった手を、さっきまで熱いマグカップを包んでいた手が覆い、急に温められた手はじんわりと痺れるように痛んだ。
「なんの野菜? その子、女の子? 男の子?」
両手の中の手を握る力を強めたり、弱めたり、時々擦ったりして、まいんはミサンガに聞く。
「プチトマト。女の子だよ」
されるがままミサンガは動かず、聞かれるままに答えた。
「そっかあ。ちゃんと育ってた?」
「すくすく伸びてるぞ」
それまでぼんやりとまいんの、彼にとっては大きな手を見つめていたミサンガは、顔を上げてからりと笑った。同じようにまいんも笑い、そして十分温まったところでミサンガの手を離した。
「そうだ。パパがお土産にお茶っ葉を買ってきてくれたの。持ってくるね」
「ああ、あのジャスミンみたいな味、やっぱりお茶だったんだな。
……あれ、パパさん帰ってきたの?」
「うん。わたしもママもぜーんぜん知らなかった!」
すぐにまいんはマグカップに、ミサンガが飲みきれる量のお茶を注いで部屋に帰ってきた。
まいんとミサンガは味覚を共有しているから、まいんが飲んだお茶の味もミサンガは離れたところで知っていた。
でも、まいんとミサンガが人前で食事をするような時はともかく、せっかくミサンガの分の食べ物・飲み物があるのに、食べていない・飲んでいないのに味だけをわかっているのは、自分にとっても彼にとっても、もったいない気がしたのだ。
「熱いから気をつけて」
「さんきゅー」
まいんは丁寧に机にマグを置く。机に座って、息で水面を波立たせて冷ますミサンガを眺めながら、まいんはふと、彼が自分にしか見えないことを寂しく思った。
初めは、突然現れた妖精に驚き、それに慣れるといつのまにか背負うことになっていた使命にむっとしてミサンガと喧嘩もした。
しかし、ミサンガがたった数時間いなくなっただけで気分は沈み、オムライスはぐしゃぐしゃ、お得意の空想に至っては、ほとんど癖のようなものだったはずなのにしようとすら思いつかなかった。
随分とミサンガに助けられていたことに気付き、仲直りをしてから、やっととも言えるくらいに遅れて、まいんは事の素晴らしさに目を輝かせたのだ。
妖精がいる! 絵本で読んだ、小人に羽が生えたタイプのとはちょっと違うけど、本当に!
それも私にしか見えなくて、その妖精は私のパートナー!
足の裏からふくらはぎを通り、おへそを経由して、胸まで熱くなり、瞳にはきらきらと天の川が流れる。
じわじわと全身に広がっていく喜びに、まいんは仲直りしたばかりのミサンガをぎゅうぎゅうと抱きしめたのだ。
ミサンガがまいんにしか見えないことは、おとぎ話の類が大好きなまいんにとってとてもわくわくすることで、なんだか自分が特別に選ばれた物語の主人公のような 気分になって、アイドルよりもほんのちょっと先に実現した空想だった。
でも、たった今、ミサンガがパパとママにも見えれば、と思った。両親も、初めはまいんのように驚くだろうが、片や夢を描く漫画家、片や夢を追いかける冒険家。
説明さえすればすぐに受け入れるだろうし、きっと子どものように喜ぶ。ママは漫画のヒントになるかもしれないなんて言って、 パパもミサンガを質問攻めにして一日や二日では解放しない。それだけでなくて、妖精の世界に行きたがるかも。
ミサンガがパパとママに見えない限り、パパとママとまいんとミサンガが同じテーブルを囲み、お揃いのマグカップを持って同じお茶を飲むことはできないのだ。
「まいん?」
ちびちびとお茶を飲んでいたミサンガが、ずっと黙り込んだままのまいんを不審に思って声をかけた。
「う? ううん、なんでもない」
まいんにはどうにもできないことだし、何よりミサンガ自身がまいん以外には姿が見えないことを特に不便に思っている訳ではない。
一旦切り上げて、まいんはミサンガをリビングに誘った。
「ね、それ飲んだらパパのお土産話聞きにいこう。まだ晩ご飯まで時間もあるし」
「うん。ちょっと待ってて…」
マグカップを持ち上げて、急いで中身を減らそうとするミサンガに、まいんはにこにこ微笑む。
別段何も考えずに、思ったことをそのままミサンガに言ったところ、拗ねてしまったのでそれ以来口にしないようにしているが、まいんにとってミサンガは「可愛い」ところもある妖精だ。
宙にふわふわ浮いて、ぬいぐるみ大のぴょこぴょこ動く妖精が自分の後ろを ついてくるのだ。話せばちょっと生意気な口を利いてくるのがたまにキズだが、まいんはあまり気にしていない。
だってミサンガのそんな口調もまいんを励ます時は優しくなるから。
「ゆっくり飲んで。火傷しちゃうよ」
ミサンガが傾けるマグを抑えるように、まいんはそっと指を置いた。

 外国から帰ってきたパパがまいんにしてくれる話はいつも物語めいていて、楽しくて不思議で、時々恐ろしくて、まいんを喜ばせるものばかりだった。
今回もパパは、異国で参加したお祭り、街で出会った旅人、変わった料理にフルーツ、鮮やかな蝶などの話をまいんに聞かせて、現像した写真をアルバムに整理しながら、ママの料理が完成するのを待っていた。
「そうだ、泊めてもらった小さな村でなかなか興味深い話を聞いたんだけど、まいんは怖いのは平気かな?」
ホラー映画はCMで見るのも苦手なまいんだったが、学校の図書室にある小学生向けの怪談が書かれた本はあまり怖くないし、面白いから好きだった。
「うー…ん、平気だよ」
しかしいまいち自信がないのは、本を書いているだけあって、パパの語り部は彼女とミサンガだけが入りこめるまいんの空想とは違って、聞き手をも異国の世界に招待するものだからだ。
「夜、トイレに行けなくなってもパパ知らないぞ〜」
そう言ってパパは少年のように歯を見せて笑う。
さっきからそろーりと、まいんにばれないようにソファーから離れようとしていたミサンガの足を宙で捕まえて、まいんは強引に膝の上に乗せた。
「だいじょうぶだもん」
傍らにあったブランケットを頭から被り、顔だけを出す。不審がられずに遠慮なくミサンガを抱きかかえられるようになったまいんは、それで一安心した。
ブランケットの中、もごもごと抗議が上がる。
「まいん、ちょっとオレ用事思い出しちゃって、すぐあの、あれ…振り込みに行かなきゃ。チャイルドシートに赤ちゃんが乗ってたみたいで今孫がたいへん…」
それを無視して、まいんはぎゅううとミサンガをよりきつく抱きしめた。
パパが話してくれる物語なら、怖い話でもまいんは漏らさずに聞きたかったのだ。

 パパが訪れたというその小さな村にある、誰も住んでいない不気味な屋敷と、かつてその屋敷に住んでいた少女の身に起きた不幸な事件と、屋敷が未だ尚取り壊されない理由とを聞き終えたところで、ちょうど献立の全てを食卓に並べ終えたママから声がかかった。
ママの気合と愛情と気合いのこもったご飯を食べて、お風呂も済ませたまいんは両親にお休みの挨拶をして部屋のベッドに転がった。
もっと遅くまで起きていて、パパとママと話したかったが、「子どもは早く寝なさい」と言われてしまった上、ふたりももう寝室に行ってしまった。
帰ってきたばかりで疲れているからだろうが、パパは早寝だなあ、とも思う。
「あー怖かった。どきどきしたね」
布団に潜って、パパがしてくれた物語を思い出しながら、まいんは目覚まし時計を合わせる。
明日は土曜日だが、朝からスクールでレッスンがある。
「ば…ばかだなぁまいんは。幽霊なんて、そんな非科学的なものを信じてるのか?」
いつものようにまいんのすぐ傍で浮いて、まるっと非科学なミサンガは、腕を組んでふふんと不敵に笑った。ちょっと口元が引きつっている。
「うーんと、怖いのはいやだけど、シーツを被ったみたいな可愛いおばけならいてもいいかな。
あ、でも妖精はずっといるって信じてたよ!」
途中まで人差し指を唇に持っていって、考えながら話していたまいんは、最後でいきなりミサンガを見上げてぱちんと両手を合わせて鳴らす。
不意打ちを食らって、ミサンガはぽかんとした。不自然な笑みが崩れて素の表情になる。
「え。あ、そう……」
一拍置いて、なんだか照れたミサンガは、頭を振ってそれをうやむやにした。なってないけど。
その証拠に、まいんはにこにこしたままだ。
ちなみに彼の今の服装は、いつものコック姿ではなく、彼女が家庭科の授業で作ったランチマットの余りの布で作られた、まいん特製のパジャマだ。おまけでナイトキャップもついている。
「まあ、オレは平気だけど、まいん、ひょっとしてまだ怖いのか? オレは平気だけど」
もう一度、からかうように笑おうして、しかしやっぱり失敗しているミサンガと目を合わせていたまいんはふと、何か気になるものを見つけたのか、布団に肘をついたまま、ミサンガの後ろを覗きこむように首を伸ばした。
すると、見る見る内に何か異形のものを目にしてしまったかのように 、はっと息をのみ、表情を強張らせた。
「うん、怖いよ。だって、ミサンガの後ろにぼうっとした白い…」
「ぎゃあぁ!」
まいんが言い終わるよりも先に、空中で着火したロケット花火にも負けない勢いでミサンガが飛んできた。
まいんの髪を揺らしてその肩のすぐ後ろに飛び込み、背中に顔を押し付ける。
そのまま何秒かまいんが身動ぎもせずにいると、ミサンガが恐る恐る背中を登って来て、彼女の肩からそっと顔を覗かせた。
きょろきょろと辺りを見回すが、ぼうっとした白い「何か」なんてどこにもない。
あれ? と首を傾げるのと同時に、乗っている肩が小刻みに揺れる。
真横でドアップになっているまいんの口元は両手で覆われていた。
「だっ、だましたなぁ!!」
「ごめん、カーテンだった! おやすみっ!」
逃げるようにそう言って、まいんはがばっと布団を被る。
「あっ、だめだからな! オレが寝るまで寝たらだめだからな!  先に寝ちゃだめなんだからなー!」  

 それから数時間たって、真夜中にまいんは布団の中で目を覚ました。
ふかふかの毛布と敷布団の間から抜け出し、半分まだ眠ったような状態でベッドから降りようとしたところでパパの話を思い出してしまったまいんは、その足を布団の上に戻す。
布団からはみ出して寝ているミサンガを つついて起こしにかかる。
「みーさんがぁ」
「んー……」
ほっぺたを人差し指でつつくと、それから逃げるように反対を向かれる。
諦めずに、まいんは今度はほっぺたを摘んで左右に引っ張った。
安眠を妨害されて、仕方なくミサンガはぼんやりと目を開ける。
「といれ」
「うん」
「いきたい」
「いけば」
にべもなくそう言われ、まいんは眠たい目をこすって、ぱちぱち瞬き、さっきよりは覚醒してから、合わせた両手を口元に持っていった。
「お願いミサンガ、ついてきて」
「えー」
渋るミサンガなんてお構いなしにその手を掴んで、まいんは部屋を出る。
廊下の先にある個室に入って、開いた扉から顔だけを覗かせ、ふらふらと浮いているミサンガに念を押す。
「そこにいてね、絶対だよ」
連れて来られたミサンガは目をこすって、解っているからと言うようにこくこく頷く。
まいんは頭を引っ込めて扉を閉めた。
まいんを待っている間、うとうとしていたミサンガは、聞こえてきた声に鼻ちょうちんを割って目を覚ました。
「え? まいん今なんて?」
単に、聞き逃した何気ない言葉を聞き返したつもりだったが、中から上がった声はひどく驚いていた。
「えええええっ!? わたし何も喋ってないよ!」
水を流し、洗った手をタオルで拭いていたまいんは、扉を跳ね飛ばすようにして慌てて廊下に転がり出てきた。
さっきよりもしっかりと、ふらつかずに宙にいるミサンガはまいんに背中を向けていて、まいんはその後ろ姿に手を伸ばそうとする。
「もう、お、驚かさないでよ」
しかし、素早く体ごとミサンガは振り返って、まいんの腕をすり抜け、彼女の唇を小さな手で押さえた。
「みひゃんが」
「しっ」
空いた方の手で、今度は自分の唇の前に人差し指を立てる。
すっかり覚めた目つきで、ミサンガは暗闇を睨みつける。
ただごとではないと、 まいんもじっと息を潜めた。
やがて、静まりきった廊下のフローリングすれすれを這うように、微かな声が漏れ出た。
その押し殺したような僅かに高い声に、まいんはますます体を強張らせる。
ふたりとも、ぴくりと指の一本も動かせないでいると、初めに聞こえた声と交互に、 時折は重なるように、生臭い獣が息衝いているような声のない息までもが聞こえてきた。
床板の冷たさから来るものとは違う、ぞっとしたものを背中に感じて、まいんは真っ青になってミサンガにしがみついた。
「み、みさ、みみ、どっ、どっ、どっ」
見るからにパニックになっているまいんを落ち着かせようと、しかしこっちも相当混乱しているミサンガは、
「よへふっよっよよよぉおーし、落ち着けまいん、あの、あれしよう、 あの、あれ、えーと、そう、つまり、にいちが?」
「に」
「ににんが?」
「し」
「みさんが?」
「く」
「あれ? ろくじゃなかったっけ?」
「え? みさんがってさんかけるさんのことじゃないの?」
「え? 呼んだ?」
「うん、呼ん……あれ?」
別の方向に混乱してしまったが、何がどう転ぶか解らないもので、 おかげで恐怖心は大分ごまかせた。
「これ、パパとママの部屋からだよね……」
「うん…たぶん」
フローリングの廊下をはいはいして進みながら、まいんは肩にしがみついているミサンガに確認する。
聞いておきながら内心では、違うと言ってくれないかな、と願っていたのだが、やはりそれで間違いないらしい。
両親の寝室に近づくにつれて、聞こえてくる声はだんだんと大きくなっていった。
じっとりとした亜熱帯の植物の上に降る雨のような、湿っぽさと熱がこもっている。
パパとママがおばけに食べられてたらどうしよう……。
まいんは震える手で進み、薄く開いていた扉の前で膝立ちになった。
そうっと中の様子を窺う。
ふたりはおばけに食べられているのではなかった。ただし、それ以上にその光景はまいんに衝撃を与えた。
パパがママを、ベッドの上に押さえつけていじめていたのだ。 ママは苦しそうに顔を歪め、酸素もろくに吸えないのか、呼吸も乱れきっていて、全身から汗が噴き出していた。そう、全身から。
ママは裸だった。ママだけじゃなく、パパも。
「お願いおさむ、やめて、もう許して」
ママがか細い、上擦った声で哀願するけれど、パパはとんでもないことに口元だけで笑ってみせるだけ。
「やめないよ、せっかく久しぶりに君に会えたんだから」
囁いて、パパはママの体に全体重をかけるようにして、ますますママを押さえつけた。
ママの綺麗な顔が、大きく歪む。
たまらず、まいんは大きく口を開く。
「喧嘩はだめー!!」そう叫んで、ふたりの間に飛び込むつもりだった。
「あ、あなた…ま、いんに、気付かれたら……」
しかし、自分の名前が出た瞬間、絡め取られたようにまいんは動けなくなった。
わたしに気付かれちゃいけないんだ。
両親が娘に気取られてはいけないことをしている。ショックで、まいんは床に手をつきそうになった。
それと同時に、そうだよ、こんなことわたしに気付かれちゃいけないんだから、だから早くやめて。
この信じられないことも、ふたりの子どもである自分を思い出せば、たとえそれが名前だけであろうときっと我に返るはずだと、縋るようにぎゅっと目を固くつぶった。
「こういう時に子どもの名前は出しちゃだめだよ、みえこ」
けれどそれも届かなかったみたいで、それどころかパパは素敵な夢でも見ているように うっとりとして、体を倒す。
パパの重みで、ママをますます苦しんでいるようだった。
まいんの名前は出しちゃだめ。目の前が真っ暗になるようだった。
気付かない内に、べったりとおしりとふとももの内側を床にひっつけた格好で座り込んでいたまいんは、ふらふらと立ち上がる。
まるで夢遊病患者のような足取りで廊下を歩き、自室のドアノブに手をかけるが、それを開ける力さえ全く入らない。
まいんの肩にぶら下がっていたミサンガが、彼女の腕を伝ってノブまで辿り着き、血の気の失せた手の上に小さな手を重ねて開けてくれた。
ベッドまで歩いて、操り人形の糸がぷっつりと切れたように、まいんは布団の上にうつ伏せに倒れ込んだ。
「…パパとママが喧嘩してた。パパがママをいじめてた」
何より、
「それをわたしに隠してる……」
一人きりで遭難してしまったような心境でまいんは呟く。
扉を閉めたミサンガが、まいんの傍らに降り立つ。
「まいん……」
気遣わしげに名を呼んだミサンガに、まいんは弾かれたように顔を上げる。
「どうしようミサンガ! あれって、ぶ、ぶいでぃって言うの?  ドラマチック・バケーション!?」
「あのふたりならローマの休日にぴったりだもんな」
ずいっと一気に顔を近づけてきたまいんにも怯まず、ミサンガはその発言を真正面から受け止めたばかりか、ずれた発言を更にずらして返す。投げられ慣れた魔球を、今日はちょっと冒険してヘディングで返したようなものだ。
「それってあの手が食べられるやつだよね?」「そうそう」なんてやりとりを挟んでから、ミサンガはうーんと考える。
「喧嘩かなあ。喧嘩ってもっとなんか…上手く言えないけど、あんな風だっけ?  もっと怒ったり、怒鳴ったりするんじゃないのか? オレとまいんもそうだった」
会ってまだ間もない頃に、まいんと主張が食い違って家出までした時のことを思い出しながら、ミサンガは宙から取り出した事典を捲る。
「ママ、わたしに気付かれたくないって言ってた。 パパは…名前出しちゃだめだって。わたしに気付かれないように喧嘩してたのかも」
「まいんを心配させないように」
「だったらいいけど、ううん、全然良くないけど、 もしわたしがきっかけでこのことが関係者さん達にばれたら、パパの冒険家生命もお終い、ママの漫画も人気急降下、連載打ち切り、わたしはくび、路頭に迷った末に一家心中。
わたしじゃなくてそっちを心配してて、それでわたしの前でだけ仲良しのふりをしてるんだったら、もっとどうしよう…!」
今回ばかりは想像力の逞しさが仇になっている。事典でVDを探していたミサンガは、慌ててそれを放り出した。
「考えすぎだってば! しっかりしろよまいん、パパもママも、 子どもより仕事を大切にするような人じゃないって、一番知ってるのはまいんだろ!」
ミサンガが柊家に住むようになってからまだそれほど経っていないし、部屋にこもりがちなママと家にいることの方が稀なパパだったが、それでも彼らとまいんを見ていれば良く解る。
まいんの目を覚まさせたその口調は、励ますというより叱るようだった。
ぱちくりとこちらを見おろしているまいんの前まで、ミサンガはシーツを爪先で蹴って飛び上がる。
「パパさんは何もないのに暴力を振るう人なんかじゃないし、ママさんだって乱暴されてただ大人しくしてるような人じゃない。オレの思い違い?」
はっとしたまいんは首をぶんぶんと左右に振る。
ミサンガは一安心してほっと息をついた。 しかしまたすぐに耳をぴんと張って、まいんを諭す。
「大人だってオレたちみたいに喧嘩するんだよ、今回はたまたま見ちゃっただけ。ほら、確か人間って『裸の付き合い』ってのをやるんだろ? あれってつまりそういうことじゃないか?」
この場合は当たらずとも遠からずだが、裸を文字通りに取っているのだからやはり勘違いである。
しかしまいんは気付かない。むしろ明るい光を見出していた。
「本音のぶつけ合いってこと?」
「そう! 身も心も包み隠さず、それがちょっとヒートアップしただけかも。 まいんは友達と喧嘩したまま絶交しちゃったなんてことあるか?」
「ううん、ない。喧嘩してもちゃんと仲直りするよ」
話しているうちに、だんだんとその明かりがより大きく、より輝いてくる。
ミサンガはパパの真似をして、そんなまいんの頭を小さな手で撫でた。
「だったらこのことは一旦置いて、今日はもう寝よう。心配なのはわかるけど、 明日早いんだから。きっとすぐに仲直りする」
とびっきり優しい声に、まいんはうっかり泣きそうになった。ごしごしと目をこすってから、ぎこちなく笑う。
「そうだね、そうだよね。わたしとミサンガも仲直りしたもんね。 パパとママも大丈夫だよね」
「うんうん」
もぞもぞと布団に潜って、顔を出す。
「じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ」