翌朝、リビングの扉を開ける前に、まいんは取っ手を握って深呼吸をした。
ガラスのはめられた扉の向こうから、食器の触れ合う音、ニュース番組の音声が漏れて来る。
まいんがスクールに通う日は休日でも早起きして朝食をつくってくれるママとそれを手伝ったり、たまにキッチンを独占して料理をしたがったりするパパだから、ふたりとももう起きているのだ。
「おはよう……」
ゆっくりと開いて、まず挨拶をする。
キッチンのテーブルに座ってコーヒーを飲んでいたパパが、新聞から顔を上げた。
「おはよう、まいん。昨日はちゃんと眠れたか?」
「うん。怖い夢も見なかったよ」
椅子を引いて、座りながら答える。いつものパパだ。昨夜、ママをいじめていた時にしていた笑みとはかけ離れた、朝日のような笑顔。
大好きなパパの笑顔を、まいんは初めて怖いと感じた。
「おはようまいん。今日はスクールで何やるの?」
パンをトースターから移し代えたお皿を片手に、オレンジジュースとガラスコップを器用にもう片手に持ったママがやってくる。
「おはようママ。えーとね、今日はお芝居の練習、先生がそろそろ新しい台本をやろうって」
「そう、頑張ってね」
ジュースをコップに注ぎながら微笑むママも、いつものママだ。まいんはそっと顔を窺う。
どこかを怪我しているようでもないし、むしろ普段より顔色がいいくらいだった。
ふたりとも、まるで何もなかったみたい。わたしがいるからかな。
トーストにいちごジャムを塗りながら、まいんはこっそりと傍らの妖精に目をやる。
パパとママに一回目線をやって、首を傾げるジェスチャーで「どう思う?」と聞くと、ミサンガも同じように頭を傾けた。
だよね、とまいんはもう一度両親を見る。
「パパ、コーヒーのお代わりあるわよ」
「ああ、ありがとう。ママの淹れるコーヒーはいつも美味しいね」
「まあ、パパったら」
ふたりはとても穏やかに朝の時間を過ごしていて、昨夜とっくみあいの喧嘩をしたようにはとても見えなかった。
取り繕って、誤魔化して、まいんには何も勘付かせないつもりなのかもしれない。
子どもに心配をさせないようにするためだとしたら、それがいいことなのか、いっそのこと包み隠さずつんけんしていてくれた方がまだましなのか、まいんには良く解らなかった。
同じ取り繕うでも、原稿が行き詰っていらいらしている時に鳴った、インターホンに出るママの声の変わり様のような、そんな気楽なものとは全く違う。そっちの方がずっと良い。
いちごジャムをたっぷり盛りつけたトーストをかじる。甘い筈なのに、今の彼女にはちっともそう感じられなかった。

 どうにも居心地が悪くて、まだ出発には時間があったので、まいんは「ちょっとお散歩してくるね」と家を出た。
庭の花壇のコスモスとガーベラにじょうろで水をやって、ひんやりとした道に出る。
塀の上を歩いていたミサンガが、前方にいた猫にじいっと見つめられて、睨めっこに負けてまいんの方に降りてきた。
ジョギング中の顔見知りのおばさんがテレビを見たと話しかけてくれた。
料理の腕前も歌もダンスも演技も褒めてくれて、嬉しいし照れくさいしでちょっと早口になってしまった。
空を見上げて雲の形をどんどん食べ物に例えていくゲームをした。わたあめ、と言ったまいんにミサンガが空中でずっこけた。
そういうことをしていると、すっと気分が軽くなっていった。近所を一周して柊家に戻ってくる。
玄関から入る前に、窓からこっそりとダイニングを覗く。
自分がいなかった間、ふたりは何をしていたのだろう。ぎくしゃくしていないといいけれど。
窓枠に手を掛け、目より下はすっかり隠れる高さまで背伸びをする。
「あれ、あれれ…」
窓に背を向けたソファーに、パパとママはぴったりとひっついて座っていた。
ママがパパの肩に頭を預けていて、パパは更にそのママの頭に頬を寄せていた。
娘の前でも気後れすることなくいちゃいちゃする両親だったが、今日は一段と、窓越しでもわかる程に甘ったるい雰囲気を作り出している。そこらじゅうにハートマークが飛んでいるようだった。
「早っ! もう仲直りしたのか? いいことだけど」
目を丸くしてミサンガも驚く。
「かなあ」
だったらもっと喜んでいいのだが、なんだかいきなりすぎる気がして、まいんはどっちつかずの声を出す。
この前にパパとママが喧嘩した時は、仲直りまでもう少し時間がかかっていたし、そのきっかけはまいんの番組を見てから、つまりその場にいたのではないとは言え、両親の間に娘が介入したからだったのだ。
「わっ、わっ」
まいんがふたりの間に入ることなく、当人同士で和解していたのなら、嬉しい反面それはそれで寂しい。
なんて思っていたまいんだったが、すぐにぱっと顔を手で覆う。
パパがママの髪に指を通し、頭を起こしたママにそうっと顔を近づけていったのだ。
くっつけていた指と指を開き、そこから目を覗かせると、案の定ふたりの距離はもっともっと縮まっていて、 決定的瞬間を見てしまうのは気が引けたまいんは、既にじりじりとガラスから離れていたミサンガの足を掴む。
「行こっミサンガ」
「うわっ」
出し抜けに引き下ろされたミサンガから調子外れの声が零れる。まいんは構わずそのまま駆けて、わざと賑やかに玄関扉を開けた。
そうして「ただいまー!」と叫ぶ。

 後部座席で揺られながら、まいんは両親の後頭部を交互に見る。
まいんのいつもの席である助手席にはママが座っていて、今日はパパが運転席でハンドルをさばいていた。まいんを送った後にデートに出かけるのだそうだ。
あまりに早い和解に、本当に仲が戻ったのか疑問で、更に介入する隙が全くなかったことに初めは戸惑っていたまいんだったが、まるでテレビで良く見る新婚さんのようだった先程のソファーでのふたりに、次第に安堵の気持ちが広がっていった。
確かに自分の知らないところでふたりが喧嘩をして、やはり知らない内に仲直りをしているとなると、ちょっと寂しいけれど、それよりも夫婦が再び円満になったことのほうに感じる喜びの方がずっと大きい。
まいんに余計な心配をかけさせないための配慮で隠していたのなら、それはミサンガの言うように、喧嘩というより本音のぶつけ合いと呼ぶ方が近かったのかもしれない。
「なあに、一人で笑っちゃって変な子ね」
スクールの廊下を歩いていると、ちょうど教室から出てきたみちかと鉢合わせた。
自然と口角が上がってしまっていたまいんは、それでも下げようとせず、むしろますますにっこりと笑った。
「みっちゃん! おはよう」
こんなやりとりも、もはや挨拶のようになっているので、みちかもこれ以上は嫌味を言わない。
「おはよう。どうしたのよ、何か面白いものでも見つけたの?」
まいんはふるふると首を振る。
「ううん、でもすっごくいいことがあったの。あのね…」
そう前置きして事細かに話し始めると、みちかは初めは頭を捻っていたが、じきにはっと何かに気付いた表情になった。
はてなマークを浮かべるまいんの背を押して、空いている教室に放り込む。
首を傾げるまいんに、壁に額を押し当てたみちかは溜め息をつき、手の甲を向けて続けるように促した。
「パパがまたお仕事に行くまでには仲直りしてて欲しいなあって思ってたんだけど、今朝起きたらもう仲直りしてたの。良かった、心配しちゃったぁ」
そう締めくくると、ようやくみちかは額を壁から離して、反転、そこに背中を預け、腕を組んでもたれかかった。
さっきまで前髪とツインテールが隠して顔が見えなかったのだが、心なしか赤くなっている。
「……そう、それは良かったわね」
みちかは垂れるツインテールに指を絡ませた。
指と髪をくるくると遊ばせながら、まいんの様子を窺う。
「うん」
底抜けに明るく頷くまいんに、みちかは一瞬呆然として、次に溜め息をついた。
そして廊下側のガラスの窓をちらりと振り返り、 誰も通りかかっていないことを確認すると髪から人差し指をほどき、ぴんと立てる。
「…老婆心ながら教えてあげるわ。あんたがよそで恥かかないように」
なんだろう、とみちかの方にまいんが寄ると、彼女はごほんと咳払いをして口を開いた。
しかし、どう切り出せばいいのか迷っているようで、「えーと…」 と言いよどむ。
随分と近くまで寄って来たまいんに、じいーっと見つめられて、 みちかはついに断念した。
「ごめんやっぱなし」
「ええー!」
立てられたままのみちかの人差し指を両手で握り、まいんはぐいと顔を近づける。
「なんで、教えて! 気になっちゃうよ」
すると、かくんと糸の切れたように頭を下げて、みちかはまいんの目線から逃れた。
「お願いみっちゃん、教えて」
めげずに、まいんは膝を曲げて屈み下を向いたみちかの更に下から覗きこむ。
両手を合わせ、お願いのポーズをするまいんの肩を押さえて引き離しながら、みちかはううんと考える。
「ええと、そうね、じゃあこれだけ。次にあんたのパパとママが そういうことしてても、それは喧嘩じゃないわよ。だから安心なさい」
「喧嘩じゃないって、やっぱり暴力? ドーナツ・バニラアイス?」
「何よそれおいしそう。クッキンアイドルの新しいレシピ?」
「ううん。でも今度つくってみるね」
「絶対よ。……じゃなくて、そういうことだから覚えときなさい。 あんたのそれは無駄な心配、杞憂よ杞憂」
うっかりまいんのペースに飲まれていたみちかは、ぱたぱたと片手を振ってみせる。
普段からみちかを頼りにしているまいんだから、生徒に教える先生のような態度で彼女にそう言われれば、すんなりと信じた。しかし当然、一つの疑問が浮かび上がる。
「じゃあパパとママは何してたの?」
そう尋ねられ、みちかは言葉に詰まったが、それも一瞬だけ。
「いずれ解るようになるわよ。それまで待ちなさい」
再び腕を組んで、まいんを見据える彼女は、なんだかいつもより大人に見える。
「気になるなあ。どうしても教えてくれない?」
「どうしても教えてあげない」
ついと顔を背けるみちかに、まいんは傍らのミサンガと目を合わせ…ようとして、さっきまで黙ってまいんとみちかのやりとりを聞いていたミサンガが、ふと窓の外に目をやったので、まいんはその目線を追った。
ガラスの向こうの廊下を歩く、やすのしんが目に入る。
「やすのしん先輩なら知ってるかなあ」
「さあね。って、ちょっと」
ぽつりと呟いたまいんが、みちかの横をすり抜ける。廊下への扉の取っ手を掴んで、素早く開き、曲がり角に差し掛かっていた彼の背中に声をかける。
「やす…!」
しかしそれも、まいんの背中に飛びついたみちかに手で口を塞がれ、途中で遮られた。そのまま、みちかはまいんを引きこみ、教室に戻す。
「…? 誰かに呼ばれたような…?」
既に曲がり角を過ぎていたやすのしんが、後ろ向きに一歩下がって教室の並んだ廊下を見渡す。
が、そこには誰もいない。
「気のせいかな」
気を取り直して彼は進んで行った。
「ふぐぐ」
ぴしゃりと扉を閉め、みちかはようやくまいんから手を退ける。
「だめよそれは、絶対だめ死んでもだめ煮え湯を飲まされてもだめ」
繰り返し強調するみちかに、まいんは眉をへにゃりと下げる。
「やすのしん先輩なら知ってると思ったの。先輩だから」
「そうかもしれないけど、だめよ。本当にだめよ、意地悪で言ってるんじゃなくて本当にだめなの」
「はあーい……」
しょんぼりするまいんに、腕を組んで言い聞かせるみちか。の脇をまたも子ねずみのようにすばしっこく駆け抜けたまいんは、開けた扉から転がり出て、今度こそ人を捕まえた。 「とくまるくーん!」
「あ、まいんちゃん。なに?」
「あのねむぐむ」
ぐわっと後ろから手が伸びてきて、まいんの鼻から下をすっぽりと覆う。ぎょっとしているとくまるを余所に、みちかはまいんの首根っこを、 まるで猫にするように掴んだ。
「だからだめだって!」
「とくまるくんなら知ってるかなあって思ったんだけど…おばあちゃん達と仲良しだし」
「知恵袋とは全く関係ないから」
とくまるに背を向けてまいんとごにょごにょ話していたみちかは、爽やかに笑って置いてけぼりを食らっている彼に向き直る。
「なんでもないわ。呼びとめたのに悪いわね」
「ごめんね、とくまるくん」
みちかに倣ってまいんは手を振る。訝しみながらもとくまるは、みちかに引きずられてどこかに行くまいんに手を振り返した。呆れ顔になりながら、ミサンガもふたりについて行く。
引きずられるまいんが熱心にみちかを見つめるものだから、穴が開いては敵わないと彼女はついに白旗を上げた。
「しょうがないわね。もうちょっと詳しく教えてあげ…」
「ほんと!? わーい!」
しかしここで大人しく続きを待てず、諸手を上げて喜んでしまうのがまいんで、その無邪気さがみちかの折角の決心を鈍らせてしまう。
まいんのこの態度と、みちかが抱える秘密の間には、子どもが子どもに語って埋めようとするには、あまりに深い溝がある。
みちかは頭を抱えたのち、ゆっくりと顔を上げ、
「……ゆ、ゆりあ社長に聞きなさい。ゆりあ社長に」
ほんのりと頬を赤く染めて、喉から絞り出すようにそう言った。

 そういうことで場面は社長室に取って代わる。忙しく仕事をこなしていた社長は、手を動かしながら聞くつもりだったが、まいんが話し始めると一旦筆を置いた。
「そうねえ…大人として、大切な娘さんを預かっている者として、本来は教えてあげなきゃいけないんだけど…」
みちかと同じように腕を組み、椅子の背もたれにひっついて伸び上る。ペンを器用に回しながら、眉根にしわを刻んでいたが、
「ああ、やっぱりだめだわ」
の一言と共にペンを机の上に放り投げた。セットされた髪をわしゃわしゃとかき混ぜる。
「私がそれを教えちゃったら、まいんの今のキャラクターに合わないのよ。いいえ、まいんが知らないままで過ごせばいいってわけじゃないわ。
ただ、できれば私が知らないところで、私が知らない内に知っていて欲しいと思ってしまうのよ。なんて言えばいいの、たとえば何か他愛もない話をしている時とかに、あれ? このタイミングでそれを言う、このタイミングでこれが解る、
それってどういう意味ですか? って聞かないってことは、あららもう知ってるのね、そうかあ、まいんももうそんな歳になったのねぇ、って具合に…」
「ええと、それってつまり」
机に肘をついて、軽く握った拳を口元に当て、ぶつぶつと独りごちる社長。その様子に大体答えは見えていたが、それでもまいんは一抹の期待をこめて聞いた。
「ごめんねまいん」
しかしそれとは裏腹に、社長は音を立てて両手を合わせたのだった。

「喧嘩じゃないし暴力でもない。『裸の付き合い』ならそう言ってくれると思うから、それでもないのかも」
唇をへの字にして、まいんは考え込む。
あの後すぐにレッスンに向かい、途中で昼食を挟んで今日のメニューを終えた。休憩時間にみちかを捕まえようとしたが、その度にはぐらかされてしまい、彼女はレッスンが終わるとさっさと帰ってしまった。
両親の迎えを待っている間の、たったふたりでの知恵の絞り大会だった。
「うーん……ううぅーん……」
腕組をして背泳ぎをするように天井を向いて浮いていたミサンガは、そこからバタ足の体勢に移行するようにくるんと反転した。
「だめだ、さっぱりわかんない」
まいんの頭上まで降りてきて、ミサンガは降参した。そして、気分転換のように何気ない口振り話を切り出す。
「ところでまいん。話は違うけどさ、裸で戦うスポーツが人間界にはあるよな」
「そうね、プロレスとかお相撲とか」
「「……」」
一瞬しっかりと見つめ合い、次に全く同じタイミングで噴き出す。
「「あはははは」」
「やだなあミサンガってば」
「ごめんごめん」
けらけらと笑った後、まいんは急に真顔をつくった。
「冴えてるね」
「ぴんときたんだ」
同じく真顔で答えるミサンガ。だったが、
「って、ちょっと待って。だったらみっちゃんもゆりあ社長も、隠す必要ない…よね?」
「あ、そっか」
一分も経たずにその線も無しになった。
「ねえ、ミサンガの事典には書いてないの? パパとママの…」
縋るように見上げるまいんに心を痛め、ミサンガは申し訳なさそうにうなだれた。
「…事典は解らない言葉を引くものだから、そもそもなんて調べればいいのか……。喧嘩とかなら引けるけど」
「そっかぁ」
落ち込むと高度もそれに伴うのか、だんだんと落ちてくるミサンガのコック帽をぽふぽふ叩いて慰めながら、まいんは壁の時計を見る。
そろそろ両親が迎えにくる頃だというのに、事態は八方ふさがりのまま、一向に進展を見せない。
こうなってしまえばもう争いの理由は置いといて、どんな方法であれ、とにかく両親を止めないと、柊家には穏やかな団欒が訪れない。幼稚園の先生だって、喧嘩している子ども達をまず止めて、それから原因を聞いていたし。
スクールが面している道路に、走って来た車が止まる音がして、まいんは窓から外を見る。柊家の車だ。
運転席の窓を開けて手を振るパパと、その後ろからひょっこり顔を見せたママに、まいんは手を振り返す。
「やっぱりわたしが止めないと」
鞄を背負いながら呟き、まいんは下ろした手で小さな拳を作った。

 その夜、まいんは一番風呂の湯船に沈んでいた。広い浴槽にわざわざ体育座りをして、湯船から出た膝小僧に手を置き、じっと固まっている。
以前、目をきらきらさせたまいんにラーメンどんぶりに放り込まれ、更に「ミミミのミサンガ〜♪」なんて歌う彼女に頭上からお湯を注がれて、食に対する冒涜だ、と怒ったキッチンの妖精は、今度は洗面器の中に放り込まれていた。
そこからミサンガはそーっと乗り出し、お湯を爪先でつついて様子を見ていたが、洗面器が偏った重さに耐えきれずにひっくり返った。
「うわぶ」
ばしゃん! とお湯が跳ねて、ぼんやりしながらも、まいんは洗面器を退けてその下からミサンガを掬い上げる。
げほげほ咳き込んで、ぴんっと耳を跳ね上げた。
「お湯飲んじゃった!」
「だいじょうぶ…」
洗面器を表に向けて、もう一度その中にミサンガを座らせるまいんだが、彼女の方がよほど大丈夫じゃない。
星をちりばめたようないつもの目は曇りがちで、眠いわけではないのにまぶたが半分ほど落ちてしまっている。
食事を終えて部屋に戻り、そこでまいんはミサンガに今晩また両親の寝室に向かうつもりでいると話したのだ。
また取っ組み合いの喧嘩をしているのなら今度こそ止めに入る。そうでなくてふたりとも夢の中なら、一先ずは安心してまいんも眠る。
キッチンで並んで夕飯をつくっていたふたりはどこから見ても仲睦まじい夫婦で、そこだけ真夏の陽射しが差しているようだった。
しかし、それでも安心はできない。いつもそうだったのに、昨晩はそうじゃなかったからここまでまいんは悩んでいるのだ。
浴槽の内側に背中を預け、ずるずると沈む。まいんは背中を丸めて、鼻で息ができるようにぎりぎりまで浸かり、息を細く長くついて湯船をぶくぶくと震わせた。
できた小さな泡が、まいんの膝小僧の近くを漂っていたゴムのアヒルをミサンガの方に流した。
アヒルが洗面器にぶつかるまでを目で追っていたミサンガは、身も心も沈みきっているまいんに小さく拳を握って振り上げて見せた。
「まいん、リラックスリラックス。パパさんもママさんも笑ってるまいんが好きなんだから」
「それって、笑ってないわたしは…」
ちゃぷんと湯船を揺らして、まいんが顔を上げる。
普段は励ませば、そうだねと素直に笑うまいんが、今回はすっかりマイナス思考に陥ってしまっている。もちろん、ミサンガがそういうつもりで言ったのではないと良く解っているのだが、言ってみれば、馬鹿だなあと柔らかく笑いかけて欲しいがための自虐のようなものだった。
「そうじゃないってば」
まいんの欲しかったものはあっさりと手の中に転がり込んできた。実体を持って。
ふよんと飛んできたミサンガがアヒルを両手で持って、そのくちばしでまいんの鼻をつつく。
視界いっぱいに広がる黄色に一つ瞬くと、それをずらしてミサンガが顔を現す。
「ふたりだけじゃないぞ。みーんなまいんが笑ってるのが好きなんだ」
「ミサンガは?」
「そりゃあオレだって笑ってるまいんがす、……っごく元気な感じがしてそっちの方がいいと思うけど」
滑らかな動きでまいんに背を向けて、ミサンガは離れた。
手の中に残ったアヒルをまた湯船に浮かべて、まいんはこっそりと笑う。お陰で自然と笑顔になれた。

 子ども一人通れる分だけ、ぎりぎりに部屋の扉を開けて、まいんは深呼吸した。ぐっと握った両手を胸の前まで持っていって、斜め上に顔を向ける。
「行くよミサンガ」
「おっけーまいん」
同じポーズで答えたミサンガと頷き合って、廊下へと一歩踏み出す。
今日もまいんに早寝するよう言った両親は今、寝室で何をしているのだろう。ぐっすりと眠っていて欲しい。パパがママに腕枕をして、異国のお話をいっぱい、ママがまどろむまでしていて欲しい。
祈るように、まいんは胸の前で手を組んで、じりじりと両親の寝室まで進む。冷たい廊下を踏む剥き出しの足から、どんどん熱が逃げて行った。
ぴったりと閉まっていた扉に手をかけ、音を立てずに覗き見できる分だけ開く。
パパもママもまだ寝ていなかった。上半身を起こして、腰から下だけ布団を被っている体勢でベッドに並んで座っている。
見つからないように、慌ててまいんはしゃがんだ。まいんにしか見えないのに、同じく急降下して身を潜めたミサンガと、彼女は目を合わせる。
どうやら今日は喧嘩でも、本音のぶつけ合いをしているのでもないようだ。まいんはほっとした。
しかし、安心するにはまだ早い、昨夜の喧嘩の原因は謎のままだもの。このまま聞き耳を立てていれば、ヒントくらい掴めるかもしれない。
まいんは床にぺたりと座った。たとえふたりの娘でも、夫婦の事情を嗅ぎ回るのは褒められたことではない、というのは子どもながらにまいんも分かっているのだが、子はかすがいとも言うし、自分が上手く立ち回れば二度と取っ組み合いの喧嘩なんてしなくなるかもしれない。
それに、もっと単純に自分がいない時に両親がどんな会話をしているか気になる。…が、もっぱら話しているのはパパの方で、それもママの耳すれすれのところまで唇を持って行っていて、その耳に直接注ぎこむように話しているので、 まいんにはママの、
「やあだ」とか、「うふふ」とか、「それって本当なの? あなた」 とかぐらいしか聞き取れなかった。
普段からべたべたとひっついているふたりだが、いつもはもっと大袈裟で、ロミオとジュリエットばりに演技がかっている。それをまいんは観客のように、にこにこして見つめ、時々はそこに加わってミュージカルのように騒がせるのだが、今のふたりはとても微笑んでは見られない。間に入るなんてもっとできない。
だって、パパは話の途中でしょっちゅうママの頬や耳に口づけるし、ママはその度にくすぐったそうに肩をすくめるしで、明らかに昼間とは雰囲気も、いちゃいちゃの質も違うのだ。
ほらまた、今度は首筋に口づけた。
「ひゃああ」
まいんはごく小さな声を上げて、顔を両手で覆う。
「相変わらずだな…」
じと目になっているミサンガが呟いて、まいんはそろっと指と指の隙間からもう一度覗く。
他のところには口づけてもずっと触れていなかった肝心のママの唇に、パパが人差し指を、まるで柔らかくてすぐに崩れてしまいそうなクリームを 掬うように優しく置いた。そしてゆっくりと勿体ぶって顔を近ける。
うわわ、とまいんは思わず床に伏せそうになるが、はたとそれを止め、むしろますます扉に近づいた。
パパはママにキスした後、このキスも随分と変わった、まいんの知らないキスなのだが、それは今は置いといて、
「ミサンガ」
「まいん」
ふたりは顔を見合わせた。
「「きすから始まる喧嘩って何…?」」